李光左(イ・グァンジャ)は李氏朝鮮の重臣。少論とよばれる派閥の実力者でした。当時の少論にも様々な考えの人がいておもに穏健派と強硬派に分かれていました。李光左は穏健派になります。英祖時代には少論穏健派のリーダーでした。
史実のどんな人物だったのか紹介します。
李光左(イ・グァンジャ)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1674年
没年月日:1740年
名前:李光左(イ・グァンジャ)
雅号:雲谷
父:李世龜
母:朴長遠の娘
妻:
前妻:洪萬恢の娘
後妻:林蓍の娘
子供:李衡佐
彼は活躍したのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗~21代英祖の時代です。
日本では江戸時代になります。
おいたち
1694年(粛宗20)。科挙の文科に首席で合格。
当時は南人派が失脚して西人派が強くなりだした時代。廃妃されていた仁顕王后が王妃にもどった頃でした。
その後、要職を歴任しました。
副提学(宮中の書籍を管理する仕事)、司諫院などを歴任したあと。
都承旨、吏曹、弘文諸学(従二品)、漢城府判尹(ソウル市長のようなもの、正二品)を歴任。
1720年。粛宗が死去。景宗が即位しました。
老論の金昌集、趙泰采、李頤命、李健命らの要求で延礽君(ヨニングン)が世弟になりました。
すると調子に乗った老論は代理聴政を要求しました。たしかに景宗は病弱でしたが政治ができないほどではありません。臣下が王に代理聴政を要求するのは行き過ぎた要求でした。しかし景宗はあっさりと認めてしまいます。
当然、少論派は老論に反論しました。少論の反論を受けて景宗は代理聴政を撤回しました。
ところがその6日後にまた景宗が「延礽君に代理聴政させよ」と命令を出しました。
これには老論も少論と一緒に代理聴政に反対しました。しかし一通り反対すると李健命たち老論は「殿下が言ってるのだから」と代理聴政を認めようとしました。
これに対して李光左と崔錫恒は「今、殿下を止めなければ100代ののちまで我らは忠義を尽くさなかったという誹りをうけてしまいます」と言って老論の態度を批判しました。老論が帰ったあと李光左と崔錫恒は相談。少論の代表・趙泰耉に景宗に謁見するようにもとめました。趙泰耉は謹慎中でしたが景宗と会うことを決断。すると老論も景宗に会うことになりました。李光左もその場に同席しました。
景宗は少論の訴えを聞き入れて代理聴政を撤回しました。
その後、少論の強硬派が老論を訴えて金昌集、趙泰采、李頤命、李健命らを処刑においこみます。
それでも金一鏡たち少論の強硬派は老論と延礽君への攻撃を止めません。景宗を暗殺しようとしたとして大量の老論が処分されました。
英祖時代
1725年。景宗が死去。英祖が即位しました。李光左は領議政になります。
当時、朝廷で力を握っていたのは少論でした。英祖は強すぎる少論を抑えようとして蕩平策(人事は偏らないように各派閥から公平に採用する)を行っていました。蕩平策によって力を回復した老論は反撃に出ます。
これによって金一鏡たち少論の強硬派は処分され力を失います。
李光左たち少論の穏健派は英祖の方針に賛成しました。
解任される
英祖は老論が強くなりすぎるのを警戒して老論の閔鎭遠に李光佐との和解を望みました。しかし閔鎭遠は和解に反対しました。逆に少論の処分を要求しました。
英祖は李光左、趙泰億を解任、柳鳳輝を流罪にして終わらそうとしました。しかし閔鎭遠は自らの進退をかけて李光佐たち処刑するよう要求しました。さすがに英祖は怒って閔鎭遠や老論の強硬派が解任されました。かわりに老論の穏健な重臣が採用されました。老論は強硬派と穏健派に別れました。
少論の復活
しかし老論派はいつまでたっても過去の問題を持ち出して責任追及を要求します。老論穏健派では老論強硬派を抑えられません。
過去の問題にこだわる老論にうんざりした英祖は少論を呼び戻すことにしました。李光佐を呼び戻して領議政にして老論強硬派に対抗させたのです。老論強硬派は一掃され少論の政権が誕生しました。
李麟佐の乱
1728年。中央の政治から外された少論の強硬派は地方の南人勢力と協力して反乱を起こしました。反乱の中心になったのが李麟佐です。
少論に不信感を持った英祖は老論の閔鎭遠を呼び戻しました。
李光左は少論たちに反乱に参加しないように呼びかけ。積極的に英祖に協力、李麟佐の反乱を鎮圧しました。
反乱の鎮圧後。奮武原從功臣一等になりました。
1740年。死去。
死後、老論から訴えが起こり反乱に加わったとして罪人扱いになりました。
純祖の時代に名誉回復しています。
テレビドラマ
ヘチ 2019 演:イム・ホ
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