閔鎭遠(ミン・ジノン)英祖と対立と和解を繰り返した老論の過激派

閔鎭遠(ミン・ジノン)は李氏朝鮮王朝の粛宗から英祖時代の重臣です。

名前が表によく出るのは英祖時代ですが、景宗時代から老論派の実質的なリーダーでした。

史実の閔鎭遠はどんな人物だったのか紹介します。

閔鎭遠(ミン・ジノン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1664年
没年月日:1736年

名前:閔鎭遠(ミン・ジノン)
父:閔維重
母:恩津宋氏
兄:閔鎭厚
妹:仁顕王后
妻:李德老の娘
子供:閔翼洙、閔遇洙

彼が活躍したのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗~21代英祖の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

父は西人派(老論)の重臣・閔維重。兵曹判書などを勤めた実力者でした。妹が粛宗の妃(仁顕王后)でした。 

1691年。科挙に合格。ところが1689年の己巳換局で西人派が失職し、仁顕王后は廃妃になっていました。そのため西人派の閔鎭遠は採用されませんでした。

1694年。甲戌換局が起きました。南人派が力を失って王妃張氏が禧嬪に降格。仁顕王后が王妃に戻りました。閔鎭遠もようやく役人に採用されました。その後は司僕寺、司憲府執義などを歴任しました。

西人派から分裂した老論派の一員として活動します。少論派の尹拯(ユン・ジュン)朴世采などと対立しました。

1703年。全羅道観察使になり書院(両班の子弟に儒教を教える施設)の乱立を防ぎました。書院の土地には税が免除される。書院の使用人は兵役が免除されるという特権があったので税収が減ったのと、書院に所属する学生たちが争いを起こし、人々に迷惑をかけるのが問題になったからでした。

その後、正2品に上がり刑曹判書、工曹判書、礼曹判書などを歴任。

1720年。兄の閔鎭厚が死亡。閔鎭厚は実質的に老論のリーダーだったのでその地位を受け継ぎました。

同じ年。粛宗が死亡。景宗が即位しました。

景宗時代

老論の金昌集、趙泰采、李頤命、李健命らが中心になって延礽君を世弟にしようとしました。

景宗が拒否すると、景宗は親孝行と君主としての素質が足りないから延礽君を太子にして政治から退くように」と歌劇は発言をして少論の反感をかいました。

延礽君は世弟に決まりました。

調子に乗った老論は代理聴政を要求しました。しかし少論の反撃にあって断念します。

1721年。景宗を暗殺しようとしたという罪をきせられ老論の多くが失脚しました。

金昌集、趙泰采、李頤命、李健命らが処刑。閔鎭遠は星州に流刑になりました。

この事件を辛壬士禍といいます。

1725年。英祖が即位。
閔鎭遠は赦免されて流刑先から戻ってきました。

蕩平策に反対

英祖の蕩平策(人事は老論と少論から公平に採用する)を行っていました。蕩平策によって力を回復した老論は反撃に出ます。

辛壬士禍で罪を着せられた老論の大臣の名誉回復を要求して実現させました。

老論の力は少論に対抗できるまで回復。閔鎭遠は左議政になりました。

「粛宗実録」の編纂の責任者にもなりました。

しかし閔鎭遠は英祖の蕩平策(人事は老論と少論から公平に採用する)に不満でした。少論への恨みは消えていなかったからです。

英祖は少論の李光佐との和解を望みましたが、和解に反対。逆に自らの進退をかけて李光佐を処刑するように英祖に要求しました。しかし英祖を怒らせてしまいます。

1727年。閔鎭遠や老論の強行な重臣が解任されました。

かわりに老論の穏健な重臣が採用されました。老論は強硬派と穏健派に別れました。

粛宗実録問題

発言力を得た少論派は閔鎭遠が編纂の責任者だった「粛宗実録」に悪意の記述があると主張。老論の反撃にあって一部の修正におわりました。

李麟佐の乱

1728年。勢いに乗る少論は地方の南人勢力と協力して反乱を起こします。

少論に不信感を持った英祖は「聖母(仁顕王后)の一族だから」という理由で閔鎭遠を呼び戻しました。

閔鎭遠は「李麟佐の残党」という理由で少論と南人を大量に粛清しました。

1729年。領中枢府事になりました。「加足帝腹論」を執筆。

1733年。奉朝賀(権限のあまりない名誉職)になりました。

1736年。死去。

テレビドラマ

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