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金宗瑞(キム・ジョンソ)歴代王に信頼された重臣は首陽大君に殺害された

5 李氏朝鮮の重臣

韓国歴史ドラマ「王女の男」でキム・ユンユの父として登場するキム・ジョンソは実在の人物。

太宗から端宗まで4代の王に仕えました。世宗の信頼が特に厚い家臣だったといわれます。世宗の時代には女真族と戦い領土を広げました。そのため武官のイメージが持たれがちですが、本来は文官です。

世宗や文宗の信頼が厚かったので幼い端宗の補佐を任されました。しかし首陽大君の起こしたクーデターて殺害されてしまいます。

史実の金宗瑞はどんな人物だったのか紹介します。

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金宗瑞(キム・ジョンソ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1390年
没年月日:1453年

名前:金宗瑞(キム・ジョンソ)
父:金錘(キムチュ)
母:裵氏(ペ氏)
妻:尹氏(ユン氏)

子供
キム・スンギュ(長男)
キム・スンビョク(次男)
キム・スンユ(三男)

彼が生きたのは1390年~1453年。朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に3代太宗~6代端宗の時代に活躍した人です。

日本では室町時代の人になります。

おいたち

1390年。李氏朝鮮の役人 ・金錘の息子として生まれました。

1405年。役人になります。

1419年。世宗が即位しました。金宗瑞は司諫院右正言になります。

1433年。咸吉道都観察使になりました。北方の女真族の侵入に備えて拠点(六鎮)を作りました。

15000の兵を動員して鴨緑江流周辺を平定。女真族でおきた内乱のすきに領土を広げ、豆満江(現在の北朝鮮とロシアの境を流れる川)まで国境を広げました。

1446年。議政府の右賛成(従一品)になりました。
1451年。議政府の左賛成・知春秋館事になり鄭麟趾とともに「高麗史」を編纂しました。

右議政(正一品)になりました。

1452年。「世宗実録」を監修しました。

左議政となって端宗を補佐しました。

首陽大君や首陽大君に寝返った鄭麟趾と対立します。

1453年。「癸酉靖難」が発生。首陽大君が起こしたクーデターで一家もろとも殺害されました。

権力を手にした端宗時代

金宗瑞は太宗から端宗の4代に仕え、歴代の王からも厚い信頼を得ました。そのため大きな権力を持つようになります。

金宗瑞と皇甫仁は文宗から端宗の補佐を任されていました。端宗が即位すると12歳と幼い王にかわって皇甫仁とともに政治を行いました。皇甫仁は消極的だったため、金宗瑞が主導権をとって政治を行っていました。

そんな状況を苦々しく思っていたのが首陽大君でした。端宗は金宗瑞の決めたことを認めるだけの王になっている。王は操り人形になっている。と考えるようになりました。

確かに金宗瑞のもとには権力が集まっていました。王を凌ぐ権力を持ち、学問と機知に優れ武人のような気性の金宗瑞は「大虎」とあだ名されるほどでした。にもかかわらず金宗瑞は権力の乱用はしませんでした。民の恨みをかうこともありませんでした。そのため首陽大君も簡単には金宗瑞を失脚させることができなかったのです。

金宗瑞を逆賊としてして描いている「端宗実録(世祖の時代に書かれたので世祖に都合のいい内容になっています)」でも金宗瑞が私腹を肥やしたとか、大きな家に住んでるとか、贅沢をしているという表現は出てきません。大きな権力を持つという立場をわきまえていたようです。

首陽大君はリーダーシップを発揮して金宗瑞や皇甫仁たちに不満な者を集め勢力を拡大しました。そこで金宗瑞は首陽大君に対抗するため、親しかった安平大君を味方にします。芸術家タイプの安平大君は文官にも人望がありました。

首陽大君のクーデータ・癸酉靖難で命を落とす

ところが首陽大君は武力で解決しようとしました。金宗瑞は日頃から兵士たちに身の回りの警備をさせていたためなかなか襲う事ができません。しかし、家にいるところに首陽大君自ら乗り込んできて金宗瑞を殺害しました。家にいた二人の息子や家族も殺害されました。

太宗から端宗まで4代の王に信頼の扱った金宗瑞は首陽大君の反乱のために命を落としたのでした。

 

ドラマ

独裁者への道 首陽大君の野望 1990年 KBS イ・スンジェ
韓明フェ  1994年 KBS イム・ドンジン
王と妃 1998年 KBS チョ・ギョンファン
大王世宗 2008年 KBS イ・ビョンウク
インス大妃 2011年 JTBC ハン・インス
王女の男 2011年 KBS イ・スンジェ
根の深い木 2011年 SBS チェ・イルファ

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