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金昌集(キム・チャンチプ)延礽君を王にしようとした老論派の重臣

5 李氏朝鮮の重臣

金昌集(キム・チャンチプ)は李氏朝鮮の粛宗から景宗の時代の政治家。延礽君(ヨニングン)を王世弟にするなど、老論派(西人派)の重要人物として政治に関わりました。

昭顕世子と嬪宮姜氏の名誉回復にも勤めています。

若い頃は父が政争で命を落としましたが、最期は自分も少論派との争いに敗れて死薬を飲みます。

史実の金昌集(キム・チャンチプ)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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金昌集(キム・チャンチプ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1648年
没年月日:1722年

名前:金昌集(キム・チャンチプ)
(姓と名を続けて呼ぶ場合はキムジャンチプと発音)
父:金壽恒(キム・スハン)

子供
金濟謙(キム・ジェギョム)

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗~20代景宗の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

父は西人派で領議政を勤めた金壽恒(キム・スハン)。

1675年(粛宗1年)。科挙を受けるべく勉学に励んでいましたが、政争で父・金壽恒が流刑になり科挙を先延ばしにしました。

1681年(粛宗7年)。父が釈放され、官職につきました。

その後、幾つかの職を歴任。

1689年(粛宗15年)。己巳煥局(南人が勝利し西人派が敗退した政争。仁顯王后が廃妃になり、禧嬪張氏が王妃になった事件)で父・金壽恒が流刑の後死刑。

金昌集は官職を棄てて郷里に戻り父の葬儀を済ませると、兄弟たちとともに山に隠れ住みました。

1694年(粛宗20年)。甲戌換局(西人派が勝利し南人派が壊滅した政争。王妃だった張氏が死刑、仁顯王后が復位した事件)。

父の名誉が回復されました。金昌集は何度か官職の誘いがありましたが断りました。

その後、鉄原府使に任命されましたが、断る理由がみつからず仕方なく就任。当時、出没していた盗賊を鎮圧して民衆の支持を得ました。

1700年(粛宗26年)。大司憲に就任。その後、要職を歴任。

1707年(粛宗33年)。左議政になるも辞職。その後、辞職と復帰を繰り返しました。

1712年(粛宗38年)。清に派遣される使節に任命され、清の都・瀋陽に向かいました。
1713年(粛宗39年)。清から帰国。

1717年(粛宗43年)。領議政になりました。

1720年(粛宗46年)。粛宗が崩御。景宗が即位。

景宗は34歳でしたがまだ子がありません。そのため、後継者問題が起こりました。

金昌集は他の老論派重臣とともにヨニン君(後の英祖)を王世弟にすべきと主張。さらにヨニン君の代理聴政を主張し景宗は認めました。しかし少論派と南人派が猛反発したため景宗は代理聴政を撤回。老論派が批判にさらされました。

権尚夏が死亡し、老論派の領袖となりました。

辛壬換局が発生。景宗を味方につけた少論派は、老論派を弾劾して追放。金昌集は流刑になりました。

1722年(景宗2)。景宗と少論派はさらに責任を追求し死刑が決定。金昌集は死薬を飲みました。享年75。

テレビドラマ

チャン・ヒビン KBS 2002年 演:イ・ソンヨン
テバク SBS 2016年 演:イ・ジェヨン

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