明徳太后は高麗の27代忠粛王の妃です。諡から恭元王后ともいいます。忠恵王、恭愍王の母親でもあります。
元出身の王妃との不仲や、王位を継いだ子どもたちとの考えの違いもあってトラブルの多い王妃でした。それでも当時としては珍しく83歳まで生き、多くの王の治世を経験しました。
明徳太后(ミョンドクテフ)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1298年
没年月日:1380年
名前:恭氏
称号:恭元王后、明徳太后
父:洪奎
母:金氏
夫:忠粛王
子供:忠恵王、恭愍王
彼女が生きたのは高麗王朝の25代忠烈王~32代ウ王の時代に生きた人です。
日本では鎌倉~室町時代になります。
おいたち
父は高麗の武臣・洪奎(ホンギュ)の五女。
1313年。洪氏は忠粛王と結婚。徳妃になりました。
洪氏は入宮前から聡明だと噂の娘でしたが、妃になってからも礼節を重んじる、慎重な性格だったといいます。
高麗王朝は一夫多妻制なので王妃は複数います。高麗王朝の後半は元から妃を迎える決まりになっていました。洪氏が入宮したとき、忠粛王は既に元から曹國長公主を迎えていました。しかし曹國長公主はまだ6歳。洪氏が事実上の王妃として忠粛王の寵愛を受けました。
1315年。長男・王禎(ワン・チョン、後の忠恵王)を出産。
しかし、あとから来た元出身の濮國長公主と洪氏は非情に仲が悪かったといいます。濮國長公主は嫉妬深かったため、忠粛王が濮國長公主に暴力を振るうこともありました。
1319年。濮國長公主が若くして死亡。元では忠粛王の暴力のせいで濮國長公主が死んだのではないかと疑いましたが、無罪となりました。
その後、元から3人めの王妃・慶華公主が来ました。元出身の王妃と気まずくなった洪氏は宮殿を出ていくことになりました。
1325年。曹國長公主が出産後に死亡。
忠粛王と洪氏の仲はさらに深くなりました。
1330年。次男の王祺(後の恭愍王)を出産しました。
1330年。忠粛王は息子の忠恵王に譲位しました。
しかしこのころから、忠粛王と洪氏の仲は悪くなりました。重臣たちのざん言を信じた忠粛王が洪氏を遠ざけてしまったのです。
1332年。忠粛王は復位。
明徳太后時代
1351年。恭愍王が即位しました。
洪氏は太后になりました。
しかし恭愍王の急激な改革に洪氏は反対しました。とくに恭愍王にとりたてられ政治を行ったシンドンとは仲が悪かったといいます。
シンドンが死亡すると、洪氏と恭愍王の関係は改善したといいます。
しかし恭愍王が後継者を禑(禑王)にしようとしたことから再び仲が悪くなります。
1380年(ウ王6年)。83歳で亡くなりました。諡は「恭元」
しかし洪氏の祭儀はおこなわれず、恭讓王の時代になってようやく祭儀が行われました。
テレビドラマ
鄭道伝 2014 KBS 演:イ・ドッキ
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