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ハヌム・李徳馨(イ・ドッキョン) ファジョンで注目される名宰相の生涯

5 李氏朝鮮の重臣

李徳響(イ・ドッキョン)、雅号は漢陰(ハヌム)。

韓国ドラマ「華政(ファジョン)」では最初は光海君の数少ない味方として登場するハヌム。

宣祖、光海君時代の朝鮮の政治家です。東人派に所属していました。東人が北人と南人に分裂後は南人派になりました。

日本との戦争時(朝鮮出兵、壬辰戦争)には、日本との交渉や明への使者、朝鮮軍の指揮をとりました。壊滅状態にあった朝鮮朝廷の中では奮闘した数少ない重臣の一人です。

光海君の王位就任に尽力。光海君時代には領議政をつとめました。強硬路線の大北派と対立し、職を奪われました。

大北派の李爾瞻(イ・イチョム)は同じ一族でしたが対立しました。李恒福(イ・ハンボク)は派閥は違いましたが生涯の友人でした。

史実の李徳響(イ・ドッキョン)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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李徳響(イ・ドッキョン)のプロフィール

どんな人?

名前:李徳響(イ・ドッキョン)
号:漢陰(ハヌム)
本館:廣州

生年月日:1561年
没年月日:1613年

肖像画

李徳響(イ・ドッキョン) ハヌム

李徳響(イ・ドッキョン)ハヌム

家族

父:李民聖(イ・ミンソン)
母:文化柳氏(柳禮善の娘)
妻:閑散李氏(李山海の娘)
子供:なし

 

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に12代仁宗~15代光海君の時代です。

日本では戦国時代~江戸時代の人になります。

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李徳響(イ・ドッキョン)の人生

おいたち

1612年。李徳響(イ・ドッキョン)は李民聖と領議政・柳前の妹、柳氏の間に生まれました。一人息子でした。

子供の頃から頭がよく、文学の才能がありました。李徳響に会った人々は彼の書いた文章と人柄に心をうたれたといいます。

宣宗のもとで領議政をつとめた李山海(イ・サンヘ)と結婚しました。

このとき、李山海の親戚だった李之菡(イ・ジハム)が李徳響を調べて李山海に紹介したといいます。

エリート官僚としてのキャリアスタート

1580年(宣祖14年)。20歳のときに科挙に合格して役人になりました。その後、校理、正郎などを歴任。

李恒福(イ・ハンボク)らと知り合い、ともに勉学に励みます。親戚の李廷立(イ・ジョンリプ)とともに「三李」と呼ばれ、才能のある若手として注目されていました。

 

スピード出世

李徳馨はその後も順調に出世。博士、修撰、校理、吏曹正郎などを歴任。

1590年には堂上官に昇進、同副承旨、大司諫、副提学、大司成、吏曹参議といった要職を歴任しました。

さらに驚くべきは1591年。彼が31歳という若さで礼曹参判になり、朝鮮最年少で大提学(正ニ品)に任命されたことです。李徳馨の才能と実績がどれほど高く評価されていたかがわかります。

日本との繋がりも?

李徳馨は、玄蘇、平といった日本人からも尊敬を集めていたと言われています。彼の国際的な視野と人柄が、国境を越えて評価されていたのかもしれません。

 

日本との戦争で活躍

1592年(宣祖25年)。司憲府大司憲の職にあるとき、日本との戦争(壬辰戦争、文禄の役・朝鮮出兵)が起こりました。

仲間と共に国家の危機に立ち向かう

当時、李徳馨は左議政 柳成龍(ユ・ソンリョン)、都承旨 李恒福(イ・ハンボク)といった仲間たちと共に対策を考えました。

日本との和平交渉にも尽力しましたが、残念ながら交渉は決裂。

そこで李徳馨は請援使となって明に援軍を要請。彼の粘り強い交渉の結果、明は朝鮮への援軍を派遣することを決定しました。

明軍と共に戦い、内政も担当

明軍が到着すると、李徳馨は提督接伴使として明の将軍・李如松(リ・ニョショウ)を補佐し共に戦いました。

また戦時下でも刑曹判書、兵曹判書、吏曹判書、工曹判書、右参賛、右賛成といった数々の要職を歴任。李恒福と交代で兵曹判書を務め、軍事政策を遂行しました。

しかし、都からの避難が遅れた妻の韓山李氏は日本軍に捕らえられることを恐れ、自ら命を絶ってしまったのです。

停戦と慶長の役へ

その後、停戦。日本と明との間で行われていた交渉が決裂。

1597年。再び日本軍の侵攻始まり、慶長の役(丁酉戦争)が勃発します。

李徳馨は首都・漢城(ソウル)の防御を強化し、市民を守るために尽力しました。幸いにも今回は日本軍が漢城まで到達することはなく漢城は守られました。

1598年、李徳馨は38歳という若さで右議政、左議政と異例のスピード出世を果たし、国の政治を主導しました。

1602年に領議政となり、慶尚道、全羅道、忠清道、江原道の四道都體察使となって、軍の再編成と民心の収集に努めました。

 

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光海君の時代

光海君を王に認めるよう明を説得

1609年。光海君が王になりました。しかし明が臨海君と永昌大君の存在を理由に王として光海君を認めません。嫡流でも長男でもないのに王になったのが問題だというのです。

李徳響は使者となって明に向かい説得しました。

1611年8月左議政、1612年11月領議政となりました。

永昌大君と仁穆大妃の廃位に反対

1613年。大北派が永昌大君(ヨンチャンテグン)仁穆大妃(インモクテビ)の廃位を主張しました。大北派の領袖 李爾瞻(イ・イチョム)が特に強硬に主張してました。

李徳馨と李爾瞻は同じ一族ですが、二人の意見は全く違いました。

6月。領議政だった李徳響は永昌大君や仁穆大妃の処刑に反対しました。

9月。再び李恒福とともに仁穆大妃の廃妃に反対しましたが北人の弾劾を受けます。

イ・ドッキョン:ハヌムの最後

永昌大君の処刑に反対する上訴と病気を理由に辞職届けを出しましたが、受け入れられません。さらに全ての官職を剥奪されました。辞任ではなく解雇の形になってしまいました。

私邸のある龍津に戻ります。

同年10月。私邸で療養中に病で亡くなりました。享年53歳。

李恒福は李徳響の死を聞いて私邸に向かいました。李徳響の遺族とともに葬儀を行い墓碑を建て彼の功績を残しました。

李徳響の死後、光海君は官職を復活させ。
仁祖即位後、功臣となりました。

 

まとめ

李徳馨(イ・ドッキョン)漢陰(ハヌム)は朝鮮王朝時代の重臣。幼少から才能を発揮、20歳で官僚となり、異例のスピード出世を遂げました。

文禄の役では明からの援軍要請に成功し国家の危機を救いました。

光海君の即位を明に認めさせたり、重臣として光海君を支えました。しかし大北派の永昌大君(ヨンチャンテグン)と仁穆大妃(インモクテビ)の廃位に反対。解任されてしまいます。最後は病気のため自宅で亡くなりました。

漢陰(ハヌム)は明との外交交渉や政争にも関わり最後まで信念を貫きました。

 

テレビドラマ

宮廷女官金尚宮 KBS 1995年 演:キム・シウォン
雷鳴 KBS 2000年 演:キム・ギョンハ
王の女 SBS 2003年 演:キム・ホヨウン
不滅の李舜臣 2004年 演:チェ・ジェウォン、ファン・ジュンウク
懲毖録 2015年 演:ナム・ジホン
華政 MBC 2015年 演:イ・ソンミン

 

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