韓国時代劇「奇皇后」にはワン・ユという王様が登場します。
しかしワン・ユという王様は高麗には実在しません。ドラマの設定と同じ時期に高麗の王様だったのは忠恵王。歴史上は淫らな行いをして人々を困らせた酷い王様だと記録されています。
設定ではワン・ユの父は忠粛王なので忠恵王と同じです。
ワン・ユと忠恵王は性格はかなり違いますが、意外と共通点があります。
歴史上の忠恵王について紹介します。
ワン・ユは実在する?
ワン・ユは架空の高麗王
ワン・ユは『奇皇后』のために創作されたキャラクター です。
高麗の歴代国王の中に「ワン・ユ」という王は実在しません。
忠恵王の予定だった?
ところが『奇皇后』の番組制作者は当初、チュ・ジンモ演じる人物を 「忠恵王」 として出す予定でした。
ところが放送前の2013年10月23日ごろ、MBC側が 役名を「忠恵王」から架空の王「ワン・ユ」へ変更 した、と複数の韓国メディアで報じられています。
そのためワン・ユは実在しない架空のキャラクターになってしまいました。
ただし、時代設定や境遇には忠恵王(王禎)の要素が入っています。
なので。
と考えて問題ないでしょう。
なぜ忠恵王のまま出せなかった?
『奇皇后』でチュ・ジンモ演じる高麗王の役名を「忠恵王」から、架空の王「ワン・ユ」へ変更 したわけは報道によると以下のとおりです。
- 忠恵王は史書での人物評価が厳しく、悪行の記録も多い
- その忠恵王を“英雄として描く”形になると、歴史歪曲だと批判されやすい
- そのため、史実の王としての忠恵王をドラマから外し、架空人物へ置き換えた
ということです。
簡単に比較すると以下のようになります。
ドラマのワンユと史実の忠恵王の違い
| 項目 | ドラマ:ワン・ユ | 史実:忠恵王(王禎) |
|---|---|---|
| 実在 | 架空の人物 | 高麗第28代の国王 |
| 父 | 忠粛王の設定 | 忠粛王 |
| 時代 | 14世紀の高麗〜元 | 14世紀、元の強い影響下の高麗 |
| 王位 | 王として描かれる | 2回即位(1330-1332/1339-1344) |
| 人物像 | 誠実で民を思う王として描写 | 史書では悪行が描かれ、歴史的な評価は厳しい。統治面でも混乱があった。 |
では、史実に存在した忠恵王 とは、どんな人物なのか紹介しましょう。
実在した忠恵王の史実
いつの時代の人?
- 名前:王禎(ワン・ジョン)
- 称号:忠恵王
- モンゴル名:宝塔実利
- 生年月日:1315年
- 没年月日:1344年
- 在位期間
- 1度目:1330~1332年
- 2度目:1339~1344年
家族
- 父:忠粛王
- 母:恭元王后
- 妻:貞順淑儀公主
- 子供:なし
彼は高麗の28国王です。一度退位した後、再び王に成りました。日本では鎌倉時代~室町時代の人になります。
家系図

高麗王朝 28代 忠恵王 家系図
元で過ごした王世子時代
忠恵王(名:王禎)は王になる前に「王世子(世継ぎ)」として元(モンゴル帝国の王朝)の都で暮らした時期があります。
当時の高麗は、元の力が非常に強い時代でした。高麗の王族が元の宮廷で生活するのは珍しい話ではありません。
このころ王禎は元の実力者だったエル・テムルと親交を深めました。
1回目の即位(1330)と退位(1332)
その後ろ盾が大きな力になり、1330年に父・忠粛王が譲位して王禎が高麗王に即位「忠恵王」となりました。
ところが忠恵王は政治に熱心だったとは言いにくく、狩りや遊興を好んだ、と伝えられます。
その結果、王としての評価は早くから悪化します。
1332年、忠恵王は王位を追われ、代わって 父の忠粛王が復位しました。
燕京に戻った忠恵王は、以前と同じようにエル・テムル一族との関係を保ちます。やがてエル・テムルが亡くなると一族は粛清され、忠恵王は後見を失いました。
さらに元でバヤンが権力を握ると忠恵王は宿衛の任務を怠ったことを理由に、1336年に高麗へ強制帰国させられます。
2回目の即位(1339)と政局の混乱
1339年、父の忠粛王が亡くなると王位をめぐって国内が不安定になります。
本来は遺詔に従って忠恵王が王位を継ぐはずでしたが、バヤンは瀋王の王暠(ワン・ゴ)を王にしようと考え、忠恵王は正式な冊封を受けられない状況に追い込まれます。
王として名実を整えるには「冊封」が欠かせません。焦った忠恵王は金銀や王室の宝物を元の有力者へ贈り、征東行省を通じて復位を訴えるなど支持を集めることに力を注ぎます
さらにはこのころの忠恵王は宮廷内で重大な非行を起こしたとも記されており、歴史上の評価を決定的に悪くする一因になりました。
1339年8月、王暠を支持する勢力が開京の王宮を襲うクーデターが発生。でもこれは鎮圧されました。
元朝は一度、印璽を伝えて復位を認める姿勢を見せましたが、わずか10日ほどで忠恵王を燕京へ送って収監させたとされます。
翌年、トクト主導でバヤンが失脚すると流れが変わり、忠恵王の復位が承認されました
こうして 忠恵王は2回目の即位をします。
廃位と最期(1344)
苦労して王位に戻った忠恵王ですが、復位後も立場は安定しません。同母弟が元の宮廷へ入ったこと、高麗出身の奇氏(のちの奇皇后)が次皇后となったことなど、宮廷の力関係はめまぐるしく動きます。
それでも忠恵王は生活を改めず、財政改革の名目で王個人の財庫を満たしたり新宮建設のために収奪を強めたりした、と記されています。
また側近が権力を握り、国政の乱れが深まったとも述べられています。
そして1343年、元へ「忠恵王は道を外れている」という告発があり「
高麗を直轄領にするため新しい行省を置いてほしい」という要請が出されました。
同年11月。元の使臣が「詔書の頒布」を口実に忠恵王を征東行省へ誘い出し、そのまま逮捕して元に送られます。
忠恵王は広東の掲陽県への流刑を命じられ、南下の途中、岳陽県で病死したとされます。
最期については世話をする者もなく非常にみじめだった、と伝えられています。
死後、遺体は高麗へ送られ、開京近郊の永陵に葬られました。
忠恵王とは違いすぎるワン・ユ
忠恵王はドラマのワン・ユとは全く正反対の酷い人物でした。
忠恵王がワン・ユのモデルになったと紹介されることもあります。モデルにしたのは確かでしょう。
でも性格は別人です。
確かに忠恵王と奇皇后も同じ年代の人です。
時代設定や元の人質になったとか2回王になったという境遇が共通しているというだけなのです。
忠恵王と似た境遇ですが大幅に脚色されたのが奇皇后に登場するワン・ユなのです。
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