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バヤン(ペガン)は自ら皇帝にしたトゴン・テムルによって追放された

3 元・モンゴル

バヤンはモンゴル帝国(大元帝国)の軍人。
ドラマ奇皇后に登場する「ペガン」のモデルにもなりました。

バヤンはモンゴル族に滅ぼされたメルキト族の出身。はやくからハーンに従っていたため生き残りました。皇帝カイシャンのもとで仕えましたが、カイシャンの死後左遷。その後、エル・テムルが力を持つと彼に接近して大きな力を得ます。

エル・テムルの死後、元の朝廷で中心的な力を保ちました。皇帝トゴン・テムルや甥のトクトによって追放になり、死亡します。

史実のバヤンはどんな人物だったのか紹介します。

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バヤン(ペガン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1340年

名前:伯顔(バヤン,Bayan)
出身:メルキト部族

彼が活躍したのは大元帝国12代皇帝トク・テムル~15代皇帝トゴン・テムルの時代です。
高麗王朝の末期。

日本では鎌倉~室町時代の人になります。

おいたち

出身のメルキト族はチンギス・ハーンに滅ぼされた部族でした。しかしバヤンの曽祖父はチンギス・ハーンに服従して生き延びました。代々モンゴル皇帝に仕え譜代の家柄となりました。

バヤンも若い頃に軍人になりモンゴルの皇族カイシャンに仕えました。

1307年。6代皇帝テムルの死後、後継者争いがおこりカイシャンが即位。7代皇帝になりました。

カイシャンの部下だったバヤンは高官の吏部尚書になりました。
1309年にはバヤンはアスト人親衛軍の指揮を任されました。アスト人もモンゴルに従う民族で精鋭部隊でした。

1311年。カイシャンが死亡。弟のアユルバルワダが即位、8代皇帝になりました。ユルバルワダのもとではカイシャンが優遇した部下たちは冷遇されました。バヤンは左遷され南方の地方に赴任します。

1323年。10代イェスンテムルが即位するころになるとカイシャン派への冷遇もやわらぎ、中央に近い平章で政事になりました。

1328年。イェスンテムルが死去。後継者をめぐる内乱が起こりました。ここで力をえたのがキプチャク族の将軍エル・テムルでした。エル・テムルがカイシャンの遺児トク・テムルを皇帝に迎えます。バヤンはこの話をききつけエル・テムルに協力することにしました。

トク・テムルが皇帝になるとバヤンは中書左丞相の位を与えられ、皇族並みの待遇を受けました。

1332年。トク・テムルが死亡すると、バヤンはエル・テムルとともに幼いイリンジバルを皇帝にします。しかしイリンジバルは2ヶ月で死亡。

1333年にはエル・テムルが死亡しました。朝廷の有力者になったバヤンはイリンジバルの兄・トゴン・テムルを皇帝に迎え右丞相になりました。エル・テムルを失ったキプチャク族は力を失いつつありました。

モンゴル帝国の宰相になる

1335年。エル・テムルの息子タンキシが反乱を起こします。バヤンはタンキシを鎮圧。皇后のダナシュリをはじめエル・テムルの一族を処刑しました。

バヤンは独裁的な力を得ました。バヤンは科挙の廃止を行ったり、人口を減らすために漢民族の虐殺を提案したりと漢民族に対して高圧的な政策をとりました。

もともと高原の遊牧民だったバヤンは平原の漢民族に対していい印象はもってなかったようです。

1340年。バヤンが宮廷を離れている間に、甥のトクトがトゴン・テムルと計って反乱を起こしました。

バヤンの側近たちは処刑され、バヤンは捕らえられました。広東に流刑になる途中で病死しました。

テレビドラマ

奇皇后 2013 演:キム・ヨンホ

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