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ココテムル(拡廓帖木児)明の洪武帝も称賛したモンゴルの名将軍

モンゴル 3 元・モンゴル

ココテムル(拡廓帖木児)は14世紀のモンゴル(北元)の将軍。

王保保という漢名ももっています。

様々な戦場で活躍した元(モンゴル帝国)の将軍です。

しかし軍閥の争いや朝廷の権力争いに巻き込まれ、皇帝トゴンテムルから疎まれ官職を剥奪されたこともあります。崩壊しつつあった元軍の中で奮闘して明に大きな打撃を与え。明建国の功労者で軍神と呼ばれた徐達に大きな敗北を味わせたこともあります。

明の皇帝 洪武帝が「天下奇男子(世界の素晴らしい男)」と呼び、明に恐れられた人物でした。

史実のココテムル(拡廓帖木児)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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ココテムルの史実

いつの時代の人?

生年月日:1330年代?
没年月日:1375年9月17日?

名称:ココテムル(拡廓帖木児)

国:元(北元)
称号:河南王、斉王

父:サインチダク(賽因赤答忽)
養父:チャガンテムル(察罕帖木児)
母:フェオル・ナイマン氏 (佛児乃蠻氏)チャガンテムルの妹
弟:トインテムル(脱因帖木児)、ネイル(耐驢、金剛奴)
妹:観音女(明 洪武帝 朱元璋の次男・秦王 朱樉の妻)
妻:毛氏

子供:不明

日本では室町時代になります。

ココテムルの生涯

生年は不明。

父は元の武将 サインチダク(賽因赤答忽)
モンゴル人ですが祖先の代から中原の河南で暮らし漢の文化にも慣れ親しんでいました。紅巾族の討伐にも参加しました。学者としても活躍しています。

母は元の武将・チャガンテムルの妹・フェオル・ナイマン氏

ココテムルは幼いときから頭が良かったのですが病弱でした。しかし母の兄・チャガンテムルからは可愛がられ彼の養子になりました。

至正22年(1362年)。養父のチャガンテムルが益都で紅巾軍を包囲中に田豊と王士誠によって殺害されました。ココテムルは養父の軍を引き継ぎ、太尉知樞密院事、中書省平章政事、銀青榮祿大夫に任命されました。

そして軍を率いて益都城を攻略、田豊と王士誠を討って養父の仇を取りました。

その後、ココテムルは太原を本拠地に、チャガンテムルの時代から敵対していた大同のボロトテムルと対立。山西と河北をめぐって争いました。

 

皇太子派と反太子派の争い

このころ皇帝トゴンテムルは政治の意欲を失い。皇太子アユルシリダラが政治を手動するようになっていましたが、皇帝トゴンテムルの側近たちはアユルシリダラを快く思わず、元の朝廷は太子派と反太子派で争っていました。

至正24年(1364年)。反太子派がボロトテムルと手を組み、ボロトテムルは皇帝のためという名目で大都(北京)に攻め込みました。皇太子アユルシリダラは大都を逃れてココテムルの領地の太原に逃れました。

至正25年(1365年)。ココテムルはアユルシリダラと手を組み大軍で大都に向けて進軍。戦いの最中に反太子派の中で内輪もめが起こり、ボロトテムルはトゴンテムルによって暗殺され。ココテムルが勝利。

ココテムルはアユルシリダラを無事大都に送り届けました。ココテムルは皇太子を助けた功績により太傅、左丞相に任命されました。

朝廷内で孤立するココテムル

しかし元には家柄に応じて役職を与える制度がありましたが。ココテムルはモンゴル人ですが家柄はよくありません。朝廷内には家柄の低いココテムルが丞相の地位に就くのを快く思わない人たちが多くいました。

また皇太子アユルシリダラの母・奇皇后はココテムルに命じてトゴンテムルを退位させ、アユルシリダラを即位させようとしましたが。ココテムルは奇皇后の思惑を知り皇帝と皇太子の間で中立を保とうとしました。そのため皇太子や奇皇后から恨まれました。

朝廷内で孤立したココテムルは「南方の守りに就きたい」と願い出て認められました。

至正25年(1365年)。アユルシリダラはココテムルに「河南王」の称号を与え、江南の反乱軍の鎮圧を命じました。

反ココテムル勢力との戦い

元が内紛で混乱している間に南方では朱元璋の勢力が大きくなっていました。

至正26年(1366年)。ココテムルは河南に到着。ココテムルは李思齊、張良弼、孔興、脫列伯ら四人の武将に命じ朱元璋を討伐するよう命令しました。ところが李思齊らはボロトテムルとと共に戦った将軍でココテムルよりも年上で経験でした。彼ら漢人を含めた将軍はココテムルの命令に従おうとせず、反乱も起きました。

ココテムルは弟のトインテムル(脱因帖木児)を山東に派遣。反乱の鎮圧にあたらせ。ココテムル自らも陝西に入り、李思齊を攻撃しました。

ココテムルは徐州で朱元璋と小規模な戦いで敗退した後は南に進軍せず、李思齊らとの戦いに明け暮れました。元の朝廷は彼らに和解を求めましたが、ココテムルと李思齊たちの争いは泊まりません。やがてトゴンテムルはココテムルに不信感を持ちます。

至正27年(1367年)。皇帝トゴンテムルはココテムルから役職を剥奪、河南王だけ残し。支配地域を制限しました。

至正28年(1368年)。皇帝トゴンテムルはココテムルのすべての役職を剥奪。支配地域を分割、諸将に王保保を共同で攻撃するよう命じます。ココテムルは晋寧に退却しました。

明の建国と元朝の大都放棄

ココテムルと諸将たちが争っている仇に朱元璋は南部をほぼ統一。

至正28年(1368年、洪武元年)1月。朱元璋は南京で皇帝に即位。国号を「明」にします。

朱元璋は元が内乱で混乱している今が攻め時と考え、徐達、張玉春らに25万の大軍を与えて大都を攻めさせました。

ココテムルの弟・脱因帖木児は明軍と戦い敗北。他の元の部隊も敗北すると、李思齊たちは戦いを放棄して領地に戻り。後に明に寝返ります。

元の朝廷ではココテムルを許して軍を指揮を任せてはという意見も出ましたが、皇帝トゴンテムルは認めません。

明軍が黄河を渡ると皇帝トゴンテムルはようやくココテムルを許して河南王、太傅、中書左丞相の官職を回復させました。

ココテムルの配下は朝廷を守るために戦うべきという意見と、皇帝はココテムルを見放したのに助ける必要はないという意見に分かれました。

そうしている間に明軍が大都に迫り、皇帝トゴンテムルと元の朝廷は大都を放棄して上都(内モンゴル自治区)に移動。

至正28年(1368年)8月。明は大都を占領し「北平」と改名しました。

 

明との戦い

至正28年(1368年)10月。ココテムルは軍を動かし、韓店で明軍を破りました。

上都の元の朝廷は勝利の知らせに喜び、皇帝トゴンテムルはココテムルに「斉王」の称号と金印を与え、大都奪回を命じました。

ココテムルは軍を動かし大都(北平)を目指しました。しかし明の徐達は北平の守りを孫興祖に任せ、ココテムルの本拠地・冀寧(太原)を攻撃するため出発。ココテムルは徐達の動きを知って撤退を決定、さらに内通者の知らせもありココテムルの軍は夜襲にあって敗北します。

ココテムルは逃げることに成功しましたが4万の兵が明の捕虜になってしまいます。

至正29年(1369年、洪武2年)1月。元の恵宗トゴンテムルはココテムルを中書右丞相に任命し、何度も援助を求めました。でもココテムルは上都や應昌(現在の内モンゴル自治区ホブト・ハダガル旗)には行かず、早く應昌を捨てて北に逃れるように勧めました。

至正29年(1369年)6月。ココテムルは寧夏で慶陽を守る張良臣を救援。ところが彼が派遣したいくつかの斥候が明軍に捕まって処刑され、派遣した将軍のハンザエルは原州を占拠した後、明軍に追い払われました。

8月。ココテムルは慶陽の救援のために永昌に移動しましたが。明軍によって慶陽が攻略されてしまいます。

12月。ココテムルは明の張温が守る蘭州を包囲。ココテムルは明の援軍を撃退。明軍の将軍 於光を倒しました。

至正30年(1369年)。明の洪武帝はモンゴル攻撃を決定。軍を二手に分けて攻撃させました。ココテムルは蘭州占領を諦め安亭(甘粛省定西)に移動しました。

安亭でココテムルは徐達の軍と戦いますが、徐達の作戦で兵がろくに眠ることができず敗退。ココテムルは妻を連れて逃げました。

至正30年(1369年)4月。恵宗トゴンテムルが死去。 昭宗 アユルシリダラが即位しました。明の将軍 李文忠はこの隙を付いて英昌を攻撃。昭宗アユルシリダラは逃亡しました。

昭宗 アユルシリダラを補佐

昭宗アユルシリダラとココテムルは和林で合流。元を建て直すため過去の対立を捨てて和解しました。ココテムルはは中書右丞相となり復興計画を協議した。

一方、明朝はココテムルはいずれ大きな脅威になると考え、住処やな討伐を目指しました。

明の北伐軍を撃退

宣光2年(1372年、明 洪武5年)。明軍は三方面からモンゴルを攻撃。中央軍は大将軍 徐達、東方軍 左副将軍 李文忠、西方軍は徵西将軍馮 勝が率いました。元を一気に潰そうとする明朝の企てに対し、ココテムルは冷静に対処しました。

まず徐達の先鋒 藍玉を乱山まで追い詰め勝利。その後、トゥラ川(現在のチュラ川)で徐達軍と遭遇う。ココテムルは敗北を装って明軍を誘導し待ち伏せして明軍を撃退。明軍は1万人以上の損害を出しました(数万人とも言われます)。

東方軍の李文忠はルクリュン河(現在のクルルン河)まで進撃、途中でハラチャンなどを撃破しましたがラルフン河(現在のエルフン河)に至る途中で包囲され、李文忠は大損害を出しながら辛うじて撤退。西方軍の馮勝だけが勝利を収めました。

この戦いで明軍の士気は落ちてしまい。以後、明軍の将兵はモンゴル高原の奥深く侵攻するのを嫌がるようになります。

昭宗 アユルシリダラはココテムルの功績を高く評価。元朝の復興は近づいたと述べました。

しかしココテムルといえども当時の元の戦力では明に全面戦争をしかけて領土を取り戻すのは難しく。宣光3年(1373年、明 洪武6年)に長城沿いで小規模な襲撃を行っただけでその後は大きな作戦行動は記録されていません。

 

ココテムルの最期

明実録では宣光5年(1375年、明 洪武8年)8月。ココテムルはハラナハイの宿営地で死亡したとされますが。

宣光6年(1376年)高麗の使者が河南王、中書右丞相ココテムルの書状を受け取っています。

宣光7年(1377年)の高麗からの贈り物の受取先の筆頭に「中書省太師ココテムル」が書かれているのでこの時期までは生きていた可能性が有ります。

宣光8年(1378年)以降は元の朝廷は丞相ハラナハイが最上位に来てココテムルの名前はありません。このころまでにココテムルなくなっている可能性が高いです。

明の洪武帝はココテムルを「天下の奇男子」と呼び。高く評価していました。洪武帝には生涯で3つの後悔があり。ひとつは元の玉璽を手に入れられなかったこと(中華王朝の正当性が保証できない)、ココテムルを生け捕りにできなかったこと。アユルシリダラの消息をつかめなかったことでした。それだけ大きな存在だったのです。

 

テレビドラマ

群王時代 2014年、モンゴル 演:巴特包勒德
乞丐皇帝與大腳皇后傳奇 2016年、中国 演:陳燁
倚天屠龍記 2019年、中国 演:孫亦凡
永楽帝 2022年、中国 演:張光北

 

 

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