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エセン・ハーン|オイラトの最盛期を作った遊牧民の首長

オイラト 4.5 元・モンゴル帝国

エセン・ハーンはオイラト族の首長。

オイラトはモンゴル高原を本拠地にした遊牧民です。オイラトはチンギス・ハーンに協力してモンゴル帝国建国に協力したこともあります。そのためモンゴルの一部と言われることもあります。

エセン・タイシはオイラトの首長の一族に生まれオイラトのリーダーになりました。

エセンが生きたのはオイラトの最盛期でした。タイシという地位につき大きな力を持ちました。モンゴル系遊牧民全体の皇帝「ハーン」を補佐する宰相のような約目です。しかしエセンはそれだけでは満足せず自分が「ハーン」になる野望を実現します。しかしモンゴルやオイラトの反発を受け反乱を起こされて死亡します。

史実のエセン・ハーンはどんな人物だったのか紹介します。

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エセン・ハーンの史実

いつの時代の人?

生年月日:1407年?
没年月日:1454年

名称:エセン(也先)
称号:タイシ → ハーン
父:トゴン
母:
子供:オシュ・テムル、ホルフダスン

彼はオイラトの首長です。

日本では室町時代の人物になります。

オイラト族と父トゴンの活躍

オイラト族は12世紀ごろからモンゴル高原にいた遊牧騎馬民族です。

チンギス・カンの一族と婚姻関係を結び、モンゴル帝国の建国に協力しました。

14世紀ごろに大元ウルス(北元)が衰えると様々な部族が争いました。たくさんあった部族はやがて2つの大きな部族集団にまとまります。そのひとつが、四十モンゴル部(ドチン・モンゴル)。一方は四オイラト部(ドルベン・オイラト)です。

ドルベン・オイラトは中国では「瓦剌」とも書きます。

ドルベン・オイラトのリーダーになったのがオイラト族の族長だったトゴンです。

トゴンはウイグル帝国の末裔を名乗るチョロース氏の一族。

トゴンはドチン・モンゴルも服従させモンゴル高原の大半を支配下にします。トゴンは自らがハーンになろうとしました。しかし中央アジアのモンゴル・チュルク系遊牧民の間ではハーンにはチンギス・ハーンの子孫しかなれないというルール(チンギス統原理)があったので諦め。チンギス・ハーンの子孫のトクトア・ブハをむかえてハーンにして、自らはタイシ(太師:臣下で最高の地位)になりました。

エセンのおいたち

エセンが生まれた年はよく分かりませんが、1407年ごろといわれてます。

エセンはトゴンの長男として生まれました。

エセンは父トゴンともにオイラトの勢力拡大に貢献しました。

オイラトのタイシ(太師)になる

1439から1440年ごろ。父・トゴンが死亡。

エセンと弟の間で後継者争いが起こりましたが、エセンが勝ち。オイラトのタイシになりました。

エセンは父と同じようにトクトア・ブハをハーンにたてました。

1440年と1445年。エセンはオアシス年ハミに遠征しました。ハミはタクラマカン砂漠とゴビ砂漠の間にあるシルクロードにありました。

てオイラトの指導者になりました。ハミはモンゴル高原から中央アジアにつながる重要な中継地点でした。

エセンは頻繁に遠征を行いオイラトの勢力を広げました。西は東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)やウズベク・ハン国、東はジュシェン(女直あるいは女真)や朝鮮とも戦いました。

南の明との間では朝貢関係をむすんでいました。父トゴンの時代から明に朝貢使節を送り中国の品を入手していました。

オイラトは交易を大きな収入源にしているので中国の品を手に入れたかったのです。朝貢で明から入手した品をシルクロードを使って西や東の国に売りさばいて収入にしていました。

明としても品物を与えて服従させておけば明の驚異にはならないと考えていたからです。

ところがエセンがオイラトの勢力を拡大すると明にとって驚異になり始めました。オイラトの支配を嫌う部族が明の領内に逃げ込むこともあり争いのもとになりました。

さらにエセンは明が決めた以上の使節を大量に送りました。使者は返礼品を受け取ることになっていたので明にとっては大きな財政負担になりました。

明の方針転換にエセンの怒りが爆発

オイラトをおとなしくさせておくため、明も最初はオイラトに品を与えていました。しかしあまりにも多すぎるので負担になります。また報告した使者の数より、実際に来た使者の数が少ないこともわかりました。返礼品を多く受け取ろうとしていたのです。

1448年。明はオイラトへの返礼品を減らします。交易を大きな収入にしているオイラトとしては明の品が減るのは困ります。

またエセンの息子と明の皇女を結婚させる約束をしていましたが、明は拒否しました。

貿易の商品が手に入らないのはオイラトにとって致命傷。また婚姻の約束を破棄されるのは屈辱でした。

そこでエセンの怒りが爆発します。

土木の変

1449年7月。エセンはトクトア・ブハ・ハーンとともに明に攻め込みました。

8月には大同(山西省大同市)を占領しました。

それに対して明の正統帝は自ら出撃。しかし正統帝が大同に到着したときには、オイラト軍は大同で略奪して引き上げていました。

正統帝は大同から北京に戻ることにしました。ところが明軍が撤退を始めると、オイラト軍が背後から攻撃。明の殿軍(最後方の部隊)が敗退。

9月。正統帝はようやくのことで土木堡に到着します。オイラト軍は土木堡で明軍の包囲します。激しい戦いがおこり明は数十万といわれる犠牲をだしました。

そして、オイラト軍は正統帝を捕虜にします。

正統帝は宣府にいたエセンのもとに連行されました。エセンは正統帝をひとじちにとって明に身代金の支払いを要求しました。

しかし明の臣下たちは身代金の支払いを拒否。正統帝の弟・朱祁鈺を新しい皇帝にしました。景泰帝の即位です。

エセンは明が身代金を支払うと考えていたので困ります。オイラト軍は長期戦の準備はしていません。貿易を収入源にしているオイラトはこのまま明との貿易が途絶えてしまうと死活問題です。

エセンは明と和睦して正統帝を釈放しました。

エセンへの不満が高まる

オイラトは明との戦いには勝利しましたが、身代金を得るのは失敗しました。

オイラト国内ではエセンへの不満が高まります。

1451年。オイラトの名目上の君主トクトア・ブハ・ハーンとエセンは争いが起こります。

直接の原因はトクトア・ブハ・ハーンがエセンの姉が産んだ王子をハーンの後継者(太子)にせず、別の妻が産んだ子を太子にしたことです。

 

1452年。2人の対立はついに武力衝突に発展。先に動いたのはトクトア・ブハ・ハーンでした。トクトア・ブハ・ハーンは挙兵しましたが、エセンとの戦いに敗れ討ち取られます。

エセンはトクトア・ブハ・ハーンを倒し、明との交易も再会。ようやく地位を回復しました。

ハーンに即位

1453年。エセンはハーンに即位。「大元天盛大可汗」と名乗りました。

明はエセンがハーンになったことに困惑しましたがエセンをオイラトのハーンと認めました。

しかしモンゴルやオイラトの人々はエセンに反発します。

モンゴル系の遊牧民の間では「ハーンになれるのはチンギス・ハーンの男系子孫だけ」というルールがあったからです。しかも各部族長の許可を得ず独断でハーンを名乗ったことも反発を招きました。ハーンを決める時はクリルタイ(部族長会議)で決めるのが習慣でしたが、それを守らなかったのです。

1454年。オイラト内で反乱が起こりました。エセンはオイラトの有力者アラク・テムル(阿剌知院)との戦いに敗れ逃走。逃亡中にエセンは討たれます。

「モンゴル年代記」によるとアラク・テムルはエセンにタイシ(太師)の地位を要求したところ断られたので反乱を起こしたといわれます。

エセンの死後

エセンの死後。長男のオシュ・テムルが太師(タイシ)の座を引き継ぎましたが弟のホルフダスンとの争いがおこりました。オイラトの力は弱まり、モンゴルが独立してしまいます。

オイラトはその後も、モンゴルと争うことはあったもののエセン時代のような勢力は作れませんでした。

その後、15世紀になってドルベン・オイラトをまとめたのがジュンガル帝国。

ジュンガル帝国は大清帝国と戦いますが破れてオイラトは清に服従します。以後、遊牧民の国は生まれませんでした。そのためジュンガルは最後の遊牧民族国家といわれます。

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