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マフムード|エセンの祖父はオイラトによるモンゴリア統一の基礎を作った

オイラト 3 元・モンゴル

マフムードは14世紀末から15世紀ごろオイラトの首領。

オイラトはモンゴル高原の遊牧騎馬民族。かつてはモンゴルに従っていました。元が中原を失いモンゴル高原に撤退するとモンゴル高原では様々な部族による勢力争いが起こりました。

その中でモンゴルから独立したのがオイラトです。4つの部族が集まっていたのでドルベン(=4)・オイラトといいます。

マフムードはモンゴルの有力者アルクタイとはとくに激しく対立しました。

お互いが明を味方につけて有利に戦おうとしました。逆に明はモンゴルとオイラトの戦いでうまく立ち回って遊牧民勢力を潰そうとしていました。

マフムードはアルクタイや明との闘いが続く中で命を落としますが、その意志は息子のトゴンや孫のエセンに受け継がれやがてオイラトがモンゴル高原を統一します。

マフムードはオイラトによるモンゴル高原統一の基礎を作ったといえる人物です。

史実のマフムードはどんな人物だったのか紹介します。

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マフムードの史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1416年

名称:マフムード(馬哈木)
別名:バトゥラ

国:ドルベン・オイラト連合
所属:チョロース部

父:ゴーハイ・ダユウ(オイラトの首領)
母:
妻:サムール
子:トゴン、他
孫:エセン、他

おいたち

マフムードの父や祖父は、オイラトのチョロース部の族長でした。チョロース部はモンゴル(北元)のハーンに仕えていました。

マフムードはチョロース部の族長ゴーハイ・ダユウの長男でした。

バトゥラという名前も伝わっています。

モンゴル(北元)のエルベグ・ハーンはマフムードにチンサン(大臣)の位を与え、娘のサムールを嫁がせました。

あるとき、父ゴーハイ・ダユウはエルベグ・ハーンと喧嘩して処刑されました。

エルベグ・ハーンはマフムードを部族長に任命しましたが、内心ではマフムードは怒っていたでしょう。

部族長になりオイラトの有力者になる

1399年。マフムードは、ケレヌート部のオゲチ・ハシハたちとともに父の仇を討つためエルベグ・ハーンを殺害しました。

エルベグ・ハーンの死後、モンゴルの人々はクン・テムルを新しいハーンにしました。

マフムードとオゲチ・ハシハたちはモンゴル(北元)から独立。ドルベン・オイラト連合を名乗りました。

ドルベン・オイラト連合はモンゴル高原の支配を巡ってモンゴル(北元)と戦いました。

1402年。オイラトのマフムードとオゲチ・ハシハがモンゴルのクン・テムル・ハーンを戦いで破りました。クン・テムル・ハーンは戦死しました。その後、オルジェイ・テムルがモンゴル(北元)のハーンに即位しました。

15世紀初め頃のオイラトはマフムード、タイピン、バト・ボロトが率いる3つの勢力に別れていました。その中で最も力を持っていたのがマフムードだと明は考えていました。

1403年。即位して間もない明の永楽帝はモンゴルに対抗するためオイラトを味方にしようとしました。永楽帝はマフムードに使節を送ってきました。マフムードは使節を出迎えましたが即答は避けました。

1408年。マフムードは明に使節を派遣しました。

1409年。明の永楽帝はオイラトのそれぞれの勢力の指導者に王位を与えました。マフムードには「順寧王」の称号が与えられました。

1409年。オイラトはモンゴルに進軍。オルジェイ・テムル、アルクタイと戦って勝ちました。モンゴルをケルレン川の東に押しやりました。

明もモンゴルに攻め込みましたが敗退。

1410年。明の永楽帝は2度めのモンゴル攻めを行って打ち負かしました。戦いに負けたモンゴルは明に服従することになりました。

明に北元勢力の討伐を申し出ました。

1412年。モンゴルが衰退したので、マフムードはモンゴルを攻めてオルジェイ・テムルを殺害しました。明に使者を送り。オルジェイ・テムルが所有していた元の玉璽と引き換えにアルクタイの討伐、明の庇護下にあるクビライ家の王子トクトア・ブハの引き渡し、そして多額の褒賞を要求しました。しかし明側は拒否しました。

オイラトのハーンの地位が空いていたのでモンゴル王族のアリクブケの子孫・デルベグをオイラトのハーンにしました。でも実際にはマフムードが力を持っていました。

明との対立

1413年初頭。明との交渉が決裂。オイラトの強化を恐れた明の永楽帝はオイラトとの同盟を破棄してアルクタイへの援助を決定しました。

それに対してマフムードは明の使者を拘束。

1413年の冬。マフムードは飲馬河を越えて明に侵入しようとしますがアルクタイの襲撃を受けます。

1414年。明の永楽帝はオイラトへの遠征を決定。大軍を率いてモンゴル高原に攻め込みました。

マフムードはケルレン河の北にあるフラン・フシウン(忽蘭忽失温)で明軍を迎撃しましたが、明軍に敗退。10人以上の息子と数千の部衆を失いました。

明軍はトゥラ川まで迫りましたが、オイラトの反撃に明軍も大きな被害を受け退却しました。

1415年。マフムードは永楽帝に使者を送って謝罪。拘置していた使者を返還しました。

1416年。マフムードはアルクタイの攻撃を受けて敗北、敗戦から間も無く死去しました。

その後、息子のトゴンがオイラトの首領になりました。

 

テレビドラマ

 大明皇妃 2019年、中国 演:曹明華 役名:ハシジュス、マフムード
最初はモンゴル人のハシジュスと名乗り于謙と知り合いになり。明軍に潜入。明の戦法を盗んで帰還します。その後は明との戦いに破れ孫のエセンを逃しました。明に大打撃を与えます。

マフムードはこのときのオイラトの首領。首領自ら間者になるなんてありえませんが。ドラマではそういう事になってます。また劇中ではマフムードがハーン(皇帝)であるかのような表現がありますが。マフムードはハーンではありません。

宣徳帝・朱瞻基の即位後の明と戦って宣徳帝・朱瞻基に斬られ命を落とします。

 

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