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バヤン・テムル(伯顔帖木児)はエセンを支え正統帝を捕虜にしたオイラトの武人

オイラト 3 元・モンゴル

バヤン・テムル(伯顔帖木児)はオイラトの貴族で武人。

エセン・タイシを支える重臣でした。

ドラマ「医女明妃伝」にも登場します。

ドラマではエセンの弟として登場します。

明朝の歴史書「明史」にも伯顔帖木児(バヤンテムル)は也先(エセン)の弟弟(=弟)と書かれています。

バヤン・テムルはエセンとは違う部族の族長でした。でもエセンのオイラト支配に協力し、エセンを支えた重臣でした。「義弟」のような存在かもしれません。明の人々にとってはバヤンはエセンの弟に見えたのでしょう。

史実のバヤン・テムルはどんな人物だったのか紹介します。

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バヤン・テムルの史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1454年

名称:バヤン・テムル
漢字名:伯顔帖木児

所属:オイラト帝国アスト部
地位:オイラト第2知院、アスト部族長

父:アルクタイ
母:不明
妻:アタタライ・アハ

子供:不明

彼はオイラトの貴族でアスト部の族長。

日本では室町時代の人物になります。

バヤン・テムルの意味

バヤン(Bayan)はモンゴル語で「富裕な人」という意味。バヤンもモンゴルでは好まれる名前です。

漢字では「伯顔」と書きます。

歴史上は

元朝で皇帝クビライに仕え南宋攻略を指揮した将軍のバヤン。
元朝で皇帝トゴン・テムル時代に大きな力を持った宰相のバヤン

などが知られています。

高麗の恭愍王のモンゴル名もバヤン・テムルでした。元に服属時代の高麗王族はモンゴル名も持っているからです。

モンゴル語のテムル(Temür)の意味は「鉄」。製鉄技術が優れていた騎馬民族にはテムルの名前を持つ人が多いです。

漢字では「帖木児」と書きます。

14~16世紀にペルシアを支配したティムール帝国のティムールも同じ意味です。テムルのアラビア風発音です。ティムールもモンゴル人出身でした。

トゴン・テムルのいたアスト部とは

トゴン・テムルはアスト部という部族の族長でした。

アスト部の祖先はカスピ海や黒海のあたりにいた遊牧騎馬民族のアラン人でした。アラン人が東に移住してモンゴルの支配下に入りアスト部になりました。アスト部が大元ウルス(元朝)に仕えたときには「色目人」とも呼ばれていました。目の色は濃い茶色ではなく、ヨーロッパ系に近い目の色だったのでしょう。

13~14世紀になるとアストやキプチャクなどの部族集団は強力な軍閥になって大元の政治を左右しました。

皇帝トゴン・テムルの時代に大元の政治を牛耳ったバヤンもメルキト・アスト・キプチャクの軍閥を率いていました。

元は明との戦いに敗れ、大都(北京)を放棄してモンゴル高原に戻りました。アスト部も他の部族とともにモンゴル高原に移り住みました。

15世紀になってアスト部を率いていたのがバヤンの父アルクタイでした。

アルクタイは太師(タイシ=宰相)と名乗りアダイ・ハーンをかついでモンゴルを支配しました。

明はモンゴル高原で力を付けていたドルベン・オイラトに援助してモンゴルと争わせました。

1434年。アルクタイがオイラトとの戦いで戦死。まもなくアスト部が担いでいたアダイ・ハーンも捉えられ死亡。

アスト部はオイラトが担ぐトクトア・ブハ(タイスン・ハーン)の配下に入りました。モンゴル高原はオイラトが統一します。

このときオイラトを率いていたのがエセンの父・トゴンです。

バヤン・テムルがアスト部族長になる

アルクタイのあとを継いでアスト部族長になったのがバヤン・テムルでした。

オイラトを率いるエセンとは父同士が争った仲。

でも強い者に従うのが遊牧民流。お互い部族グループの代表という立場だったので個人的には親の敵という感覚はなかったでしょう。むしろ強い父を倒した凄いやつ。と思っていたかもしれません。

バヤン・テムルはエセンにとって第一の重臣。オイラトでもとくに高い地位にいました。平章や第2知院という役職につきオイラトの左翼を担当しました。

オイラトは騎馬民族伝統の中央軍・左翼軍・右翼軍にわける編成を採用していました。そのひとつを任されるほどの武将だったのです。

土木の変で活躍

1449年。オイラトと明の戦争が始まりました。

戦いの原因は明が朝貢の返礼品を減らしたこと。明から仕入れた品を売って財源にしていたオイラトは困りました。

経済的に困ったエセンは明との開戦を決意しました。明と戦って戦利品を部族に配って不満を解消するとともに、軍事的に圧力をかけて有利な条件を貿易をしようとしたのです。

つまりエセンの目的は明の打倒ではなく、利益をあげることでした。

エセンは3つ方向から明に攻め込みました。中央郡をエセンが指揮して、左翼軍(東側の軍)をバヤン・テムルが指揮しました。

明は皇帝の正統帝(英宗)が自ら軍を率いていました。バヤン・テムルは土木堡という場所で正統帝率いる明軍を破り、正統帝を捕虜にする手柄を立てました。

バヤン・テムルは捉えた正統帝をエセンのいるキャンプにつれていきました。

エセンにとっても予想外の大勝利でした。そこで正統帝を人質にして明から身代金を取ることにします。オイラトとしても正統帝を殺すわけにはいきません。エセン、バヤン・テムルたちは正統帝に敬意をはらって接していました。やがて英宗と親しくなりました。

正統帝を人質にしたまま北京を攻めましたが、騎兵中心の部隊では城攻めは難しく失敗。さらに明では正統帝のかわりに景泰帝が即位します。

この決定にはバヤン・テムルやエセンも驚いたでしょう。

交渉はうまくいかず、明はトクトア・ブハ・ハーンたちエセン以外の者たちと交渉をはじめました。

1450年。不利になったエセンは正統帝を釈放しました。

エセンのハーン就任

土木の変の変のあと。太子(ハーンの後継者)を巡ってトクトア・ブハ・ハーンとエセンが対立します。

1452年。トクトア・ブハ・ハーンはハラチン部とともにエセンを討とうとします。

バヤン・テムルはエセンに味方しトクトア・ブハ・ハーン派との戦いに勝ちました。トクトア・ブハ・ハーンは逃げる途中で裏切りにあって殺害されました。

1453年。エセンは自らハーンを名乗ります。モンゴル高原や中央アジアの騎馬民族には「チンギス・ハーンの男系子孫の男子でなければハーン(皇帝)になれない」という掟がありました。エセンは母系はチンギス・ハーンの子孫ですが父系は違います。掟破りのエセンの行動に不満がたかまります。

このときのバヤン・テムルの心境を伝える記録はありませんが。この後もエセンとともに行動しているので、エセンを支持していたようです。

反乱で命を落とす

1454年。アラク・テムルが反乱を起こしました。アラク・テムルはエセンのいるゲルを襲撃。エセンを殺害しました。このとき、バヤン・テムルもエセンと同じゲルに居いました。そしてエセンとともにアラク・テムルの兵に討たれました。

1457年。英宗は再び明の皇帝に即位(2回めの即位では天順帝といいます)。

天順帝(英宗)はバヤン・テムルの妻アタタライ・アハに使者を送りました。英宗は自分を捕虜にしたバヤン・テムルを恨んではなかったようです。

英宗として自分を見捨てた明の重臣や景泰帝より、捕虜にしたとはいえ礼をつくしてくれたバヤン・テムルに親近感があったのかもしれません。

ドラマのバヤン・テムル

女医明妃伝 2016年、中国、演:李超
大明皇妃  2019年、中国、演:斯力更

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