淑儀(スギ)文氏(ムン氏)は李氏朝鮮21代国王・英祖の側室。英祖の寵愛をうけた側室です。
昭媛(スグォン)文氏ともよばれます。
思悼世子の死に関わっている人物だともいわれますが、具体的に彼女が何をしたのかは史料が乏しいのでよくわかっていません。
確かなのは、思悼世子の息子・正祖が即位直後に文氏を処刑したこと。正祖は処刑するだけでなく文氏の位を奪いました。
そのため、朝鮮王朝の記録には文女(ムンニョ)と書かれています。
史実の文氏はどんな人物だったのか紹介します。
昭媛文氏(淑儀文氏)の史実
プロフィール
姓:文(ムン)
名前:不明
生年月日:不明
没年月日:1776年
位:淑儀(スギ)・昭媛(スグォン)
父:不明
母:不明
弟:文聖国(ムン・ソングク)
夫:英祖
彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の21代英祖の側室。
日本では江戸時代の人になります。
子供
- 和寧翁主
- 和吉翁主
賢嬪趙氏に仕える宮女
生年。両親は不明。
時期は不明ですか宮女になりました。
野史によれば、英祖の長男・孝章世子の妃・賢嬪趙氏に使える宮女だったといいます。
朝廷がまとめた正当な歴史ではなく。民間に伝わるうわさ話をまとめたもの。
1751年(英祖27年)に賢嬪趙氏が死亡。
英祖は息子の嫁たちには優しくしていました。賢嬪趙氏も可愛がっていたといいます。それだけに賢嬪趙氏の死に英祖はひどく落ち込みました。
英祖の寵愛を受ける
野史によると。
英祖が賢嬪趙氏の暮らした住まいを見ていたとき、彼の目に止まったのが文氏でした。それ以来、文氏は英祖の寵愛を受けるようになったといいます。
王が息子の嫁に仕える宮女を自分の側室にするのは禁止されてはいません。でも道徳的にはあまり好まれません。
文氏について宮中の内外で変な噂がたつようになりました。噂好きな民衆は「文氏の母は尼だった」「文氏は外でも王子を産んでいる」などと噂しました。
正祖イ・サンの母 恵慶宮が書いた日記「恨中録」にも登場するくらいなので宮中の内外で噂になっていたのでしょう。
英祖と文氏の噂に敏感だったのは孫のイ・サンでした。この悪評が正祖が即位した時に真っ先に狙われる原因になったともいわれます。
正四品 昭媛(スグォン)に昇進
1753年(英祖29年)。正四品 昭媛(スグォン)になりました。
英祖は文氏を正四品昭媛にする教旨(命令書)に印を押すように明治、承旨に印を渡そうとしましたが。
承旨の尹光儀(ユン・グワンウィ)は「政務中でなけれ印を受け取ることはできません」と拒否しました。
英祖は「君主が命じているのに、なぜ承旨が拒む事ができるのか?政務中でなくても印を押した前例があるので問題ない」と言いましたが。
尹光儀は「後宮の封爵を承旨に任せ、政務を待たずに突然印を押すと必ず後に弊害が生じるでしょう。私が罪を受けることになっても、命令を実行することはできません。」と拒否。
翌日。英祖は他の承旨に命じて教旨に印を押させました。
でも後日、英祖は尹光儀を正直者だと高く評価し、吏曹参議に昇進させました。
従二品 淑儀(スギ)に昇進
1771年(英祖47年)。従二品 淑儀(スギ)になりました。
時期は不明ですが兄弟の文聖国(ムン・ソングク)が役人になりました。
思悼世子を陥れる
老論重臣の金尚魯(キム・サンロ)や、兄の文聖国と結託して思悼世子の評判を落とす噂を流しました。
他にも薬院の高麗人参を盗むなどの不正を行いました。
当時の人々は文氏の行いを知っていましたが、英祖だけが知らずに寵愛していました。
そのため誰も文氏を処罰できずにいたといいます。
廃位になる
1776年(正祖即位年)。思悼世子の息子イ・サンが即位。正祖になりました。
真っ先に粛清の対象になったのが淑儀文氏でした。父を死に追いやった者は他にもいました。でも宮中の内外でささやかれる噂も処分の理由になったのかもしれません。
5月。正祖は淑儀文氏の位を剥奪してを宮廷から追い出しました。文氏とともに活動していた兄・文聖国は奴婢にされました。文氏の母は済州島に送られました。
これ以後、文氏は文女と呼ばれるようになります。
8月。正祖は文氏に死罪を命令。私邸で毒を飲み死亡しました。
多くの人々が文氏だけでなく文氏の娘・和寧翁主を処分するように訴えました。和寧翁主は歳は若いですが正祖にとっては伯母になります。正祖は血を分けた肉親の情を理由に和寧翁主は処分しませんでした。
もう一人の文氏の娘・和吉翁主は正祖が即位したときには既に他界していました。
1781年(正祖5年)。和寧翁主の夫・沈能建が文氏の生前の家を勝手に売って処分されたこともあります。
テレビドラマ
大王の道 1998年 MBC 演:ユン・ソナ
秘密の扉 2014年 SBS 演:イ・ソル
赤い袖先 2021年 MBC 演:コ・ハ
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