高麗と朝鮮王朝は文臣が力を持つ国でした。
武臣はいても地位は低いままでした。
ところが高麗の18代毅宗の時代。待遇に不満を持った武臣が反乱を起こし武臣政権を作りました。
約100年続く武臣政権の始まりです。
日本の幕府と違って高麗の武臣政権のトップは世襲制ではありませんでしたが。19代明宗の時代からは崔氏が力を持ち武臣政権のトップの地位・教定別監を世襲しました。
武臣政権のトップになり高麗を支配した崔氏一族について紹介します。
崔忠献:高麗武臣最高の権力者
活躍した時期:19代明宗~23代高宗の時代。
生年月日:1149年
没年月日:1219年
名前:崔忠献(チェ・チュンホン、さい ちゅうけん)
父:崔元浩
妻:
松氏夫人
靜和宅主王氏(康宗の娘、高宗の姉)
綏成宅主任氏
紫雲仙
崔氏政権の初代。
高麗の武臣政権は、協力な指導者がなく権力争いが続いていました。当時、1196年。崔忠献は、最高権力者だった李義旼を滅ぼして武臣のトップに立ちました。
1197年。明宗を廃して、神宗を擁立。神宗は崔忠献のいいなりでした。崔一族による独裁政治が始まります。
崔忠献は実の弟でも反対するものは容赦なく粛清しました。僧侶の反乱や農民の一揆も起こりましたが鎮圧しました。
1209年。武臣の最高位・教定別監が作られ、武臣が権力を握ることが合法化されました。武臣の地位はますます安定します。
教定別監の地位は崔氏によって4代62年世襲されました。
権力を握る途中で多くの粛清をしたため独裁者のイメージが強い人物ですが。混乱した国内を立て直したり、交易を盛んにしたり、文人でも有能であれば登用したりと政治家としての手腕は優れていました。
高麗の武人政権の中でも最も力のあった人物。王を凌ぐ権力を持っていました。
高麗王家とは婚姻関係を結び影響力を高めました。22代康宗の娘婿、23代高宗の義理の兄、24代元宗の叔父になります。
高麗史の研究者の間では、ほぼ同じ時代に日本で武家政権を作った源頼朝と比較されることのある人物です。
崔瑀:モンゴル帝国との戦い
23代高宗の時代。
崔氏政権の2代目
生年月日:1166年
没年月日:1249年
名前:崔瑀(チェ・ウ)→崔怡
父:崔忠献
母:宋清の娘
妻:
河東鄭氏
大氏婦人
鐵原崔氏
瑞連房
崔忠献のあとを継ぎ、1219~1249年の30年間、教定別監を務めました。
教定別監になってからは崔怡と改名しました。
父・崔忠献が溜め込んでいた財産を王に捧げたり、民衆から取り上げた土地を持ち主に返して人々の支持を集めました。
一方で、政房(人事を担当する役所)を自宅に設置して人事権を王や官僚から奪いました。
契丹との戦いではモンゴルと共同して戦いました。
1220年からモンゴルに朝貢していました。
1225年。モンゴルの使者が帰国途中で殺される事件が発生しました。当時モンゴルは西夏との戦争中で高麗への報復は後回しになりました。
1231年。モンゴル軍が高麗に侵攻。あっという間に首都・開城が陥落。高愛は降伏しました。大量の貢物を要求。モンゴルは高麗統治のために統治官72人を配置しました。その後、モンゴルは撤退しました。
1232年。崔瑀はモンゴル人の統治官を全員殺害。国王と開城の民を連れて江華島に移動して防御を固めました。崔瑀は遊牧民のモンゴル兵は海での戦闘に不慣れと判断したためです。
モンゴルは2回目の侵攻を開始。崔瑀の読みどおり、モンゴル軍は江華島を落とすことができず撤退しました。
1234年。モンゴルは3回目の侵攻を開始。高麗軍の補給を断つため高麗各地の農地を焼きました。兵糧攻めにあった江華島政権は戦闘不能に陥りつつありました。
1238年。高麗はモンゴルと和平交渉を行います。高麗王室から人質をだすことになりました。高麗は王族の偽物を送りました。ところが偽物がばれてしまい、江華島からの撤退とさらなる貢物を要求されます。高麗は貴族の子弟を人質に出した以外は要求に応じませんでした。
高宗の命令で、モンゴルとの戦争で焼けた大蔵経を復元。しかし個人の財産を没収して制作費用にあてるなど民衆の反感を買うこともありました。
これが現在伝わる「高麗八萬大蔵経」です。室町時代には日本への輸出品にもなりました。
半島の人々が苦しんでいる間も、崔瑀は江華島に逃れた王侯貴族らと贅沢をして人々の反感をかいます。
1247年。モンゴルの4回目の侵攻が始まります。高麗全土で略奪が行われました。
モンゴル皇帝グユク・カンが死去したためモンゴル軍は一時撤退しました。
1249年。崔瑀は死亡しました。
崔沆:対モンゴル強硬路線を引き継ぐ
23代高宗の時代。
崔氏政権の3代目
生年月日:1209年
没年月日:1257年
名前:崔沆(チェ・ハン)
父:崔瑀(チェ・ウ)
母:鄭氏
崔瑀の次男です。若い頃は仏門に入れられ僧侶になっていましたが、父崔瑀が病気になったため還俗して役人になります。
1249年。父・崔瑀が死亡したため後を継ぎました。
1252年。モンゴルが江華島からでることを要求したため高宗ら文官は受け入れることにしました。しかし崔沆は反対しました。
1253年。モンゴルが5回目の侵攻をはじめました。高宗が江華島から出ることを約束したため、モンゴル軍は撤退しました。
しかしその後も高宗たち朝廷の上層部は江華島に残ります。
1254年。高麗上層部が江華島に残っていることを知ったモンゴルは6回目の侵攻を開始。高麗人20万人が捕虜になり、殺された者は多数。国土は荒廃しました。
この時期、高麗朝廷は内部で2つに分かれていました。
モンゴルとの徹底抗戦を主張する崔沆と武臣たち。
モンゴルに服従して和平を結ぶ高宗や文官たちです。
1257年。モンゴルへの服従を反対したまま死亡。
崔竩:武臣政権の終わり
23代高宗の時代。
崔氏政権の4代目
生年月日:1233年
没年月日:1258年
名前:崔竩(チェ・ウィ)
父:崔沆(チェ・ハン)
母:宋壻の娘
父・崔沆(チェ・ハン)が僧侶をしていたとき宋壻の娘と密通した産まれたのが崔竩です。崔沆は正室に子がいなかったため崔竩(チェ・ウィ)が後継者になりました。
1258年。父・崔沆のあとをついで武臣政権のトップになりました。
崔竩は文臣の主張を聞かず。柳能、崔良伯などの意見を聞き、無闇に殺戮を行い人々の反感は高まりました。飢餓で苦しんでいる民衆のために食料を配給しようという文臣の意見も無視しました。
文臣筆頭の柳璥(ユ・ギョン)が武臣の金俊(キム・ジュン)と結託して反乱を起こしました。武臣の正規軍・三別抄も金俊に味方して崔竩とその側近は殺されました。
62年続いた崔氏の武臣政権は終わります。
その後の高麗
その後、高麗はモンゴルに服従しました。
崔氏のあとを継いだ武臣政権では内部争いが起こりました。
崔沆にかわって武臣のトップになったのは金俊(キム・ジュン)でした。
1268年。金俊は反モンゴル派の林衍に暗殺されます。
あとを継いだ武臣政権もモンゴルの援助を得た元宗によって滅ぼされました。
約100年続いた高麗の武臣政権は終わりました。
その後、李氏朝鮮時代も含めて朝鮮半島には二度と武臣が力をもった政権は誕生しませんでした。
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