和協翁主(ファヒョプオンジュ)は李氏朝鮮王朝の王女。
第21代国王 英祖の娘です。
母は思悼世子と同じ暎嬪李氏。
和協翁主は父からの愛情をあまり受けることがなく、特に同母の姉妹たちとは異なり冷遇されることが多かったと伝えられています。
それでも和協翁主は弟の思悼世子(サドセジャ)とは親しくして、互いに苦しみを共有していました。
和協翁主はわずか20歳で麻疹によってこの世を去ります。彼女の死には父・英祖も深く悲しんだと言います。
和協翁主(ファヒョプオンジュ)はどのような生涯を送ったのか紹介します。
和協翁主(ファヒョプオンジュ)の史実
プロフィール
生没年
生年月日:1733年
没年月日:1752年
日本では江戸時代になります。
名前
姓:李
名:不明
称号:和協翁主(ファヒョプオンジュ)
和平翁主の家族
父:英祖
母:暎嬪 李氏
姉:和平翁主
姉:二翁主
姉:三翁主
姉:四翁主
夫:申光綏
和平翁主(ファヒョプオンジュ)の家系図
和協翁主(ファヒョプオンジュ)の生涯
1733年(英祖9年)旧暦3月7日。和協翁主が生まれました。
母は暎嬪 李氏
英祖にとっては7番目。暎嬪 李氏にとっては5番目の娘として生まれました。
当時、暎嬪李氏は4人の娘を続けて産んでいたので王子の誕生が期待されていました。でも娘が生まれたので英祖は後継ぎを心配しました。
翌日。医師や領議政(最高位の大臣)・右議政が謁見。大臣たちは王が失望しているだろうと恐れ、慰めと励ましの言葉を言いました。
宋寅明(ソン·インミョン)は息子を授ける神「高禖」に祈り、山の神に祈願することを奏上します。
でも英祖は
「私がこの件で寝食を忘れるような事態に陥るわけではない。ただ三宗(孝宗・顕宗・粛宗)の血脈を考えると、心が平静ではないだけだ」
『英祖実録』33巻
と言いました。
1739年(英祖15年)。和協翁主(ファヒョプオンジュ)の称号が与えられました。
1743年(英祖19年)。領議政を務めた申晩(シン・マン)の息子・永城尉(ヨン·ソンウィ)申光綏(シン·グァンス)と結婚しました。
このころ、朝鮮国内では干ばつが続いていたので英祖は婚礼を延期しようとしました。でも臣下たちの助言によって質素にして婚礼を行いました。
父から冷たくされる和協翁主と思悼世子
恵慶宮洪氏が書いた「恨中録」によれば、和協翁主は英祖の娘たちの中で最も美しい容貌を持っていたと言われます。
でも英祖には娘ばかりが生まれたため、和協翁主は父の愛情を受けることができなかったとも書かれています。
同じ母を持つ姉の和平翁主や妹の和緩翁主とは違い、父の愛情をほとんど受けていませんでした。
英祖が思悼世子のもとに立ち寄り「食事をしたか?」と尋ねていましたが。その返事を聞いた後に自分の耳を洗い、その洗った水を和協翁主の邸宅の方に捨てていたと言います。
これを聞いた思悼世子は、和協翁主に対して「我々は洗い流される慈悲を受けているのだな!」と笑っていたとされます。
さらに英祖は和協翁主と思悼世子が和平翁主の邸宅に入ることや、彼女がよく通る道を歩くことさえも禁じていました。
和協翁主と思悼世子はお互いに同じ苦しみを共有していたため、彼らの絆は特に深かったとされています。
翁主の夫の申光綏も英祖から冷たくされていたと言います。
それでも娘は心配
それでも英祖と和協翁主は親子です。
普段は冷たくしている英祖も和協翁主が重病になると心配になり、見舞いに行きました。
和協翁主が伝染病の麻疹を発病していたため、大臣たちは英祖に見舞いを止めるように進言します。でも英祖は彼らを叱り飛ばしました。
英祖が訪れると聞いた和協翁主は、すぐに使用人に膳を用意させ父をもてなそうとしました。
ところが英祖が到着する前に彼女は呼吸困難になって昏睡状態に陥ります。
英祖は和協翁主の枕元に朝まで留まったものの、彼女が目を覚ますことはありませんでした。3度「私は宮に戻る」と言って涙をこらえて去りました。
翌日。
英祖は御医から和協翁主が目を覚ましたと報告を受けます。
さらに和協翁主が「なぜ自分を起こして父を迎えさせなかったのか」と叱ったこと。さらに彼女が英祖を訪問するつもりだったことを知らされ英祖は涙を流しました。
和協翁主の最期
その2日後。
1752年(英祖28年)旧暦11月27日。和協翁主は邸宅で亡くなりました。死因は麻疹(はしか)です。享年20歳(数え歳)。
親子が再び会うことはできませんでした。
英祖は翁主の家に行こうとしました。でも重臣たちは王の体調が良くないのでしばらくの間、翁主の家に行くのは止めたほうがいいのではと請願しましたが英祖は拒否しました。
彼女は京畿道楊州の金谷平丘村(現在の南楊州三牌洞市)に埋葬されます。
翁主が亡くなった後も英祖は和協翁主の邸宅の借金を返済し、命日には邸宅に通っていました。
1776年(英祖52年)。和協翁主の墓が改葬されます。このとき英祖は芸文館に命じて和協翁主の祭文を作らせています。
思悼世子の悲しみ
和協翁主の死には仲の良かった思悼世子も深く悲しみます。
彼は自身の著作「凌虚関漫稿」に、
吾、この姉に別格の思いを寄せていたが、今、忽然として亡くなり、この悲しみはいかばかりか。弔うこともできず、無念である。
思悼世子「凌虚関漫稿」
と書き残しました。
さらに和協翁主を悼む祭文を書き。亡き姉への思いを表したのでした。
墓の発掘
1993年2月24日。ソウル近郊の龍山で和協翁主の石室が発見されました。
2016年。南楊州市と高麗文化財研究院によって、和協翁主夫妻が改葬される前の最初の埋葬地が発掘されました。
すると英祖が自ら執筆した394字の和協翁主の直筆墓誌石と、翁主の化粧品、鏡、櫛、青花白磁の箱などの遺物が発掘されました。
その遺品の中には日本製の青銅の鏡もありました。王族女性が生前使っていた物は珍しいので。貴重な遺物となっています。
和平翁主のテレビドラマ
大王の道 1998年、MBC 演:ク・ヘジン
コメント