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澶淵の盟。宋と契丹(遼)の和平条約とは

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澶淵(せんえん)の盟とは1004年の戦いの後、宋と契丹(遼)の間で結ばれた平和条約です。

調印された場所が宋の澶淵郡だったので澶淵の盟と呼ばれています。

この条約ではお互いの領土はそのまま。宋は遼に毎年、絹20万疋、銀10万両を贈る事になりました。この贈り物を「歳幣(さいへい)」と言いました。

中国ドラマ「大宋宮詞」の公式HPに載っている「遼が宋に臣下の礼を取ることで決着」は間違い。遼は宋の臣下になっていません。盟約ではお互いを「大◯皇帝」と呼び両国は対等な形で条約が結ばれています。条約の中身も宋に不利な内容です。

それでも被害の出る戦争をせずにお金で平和を買えたのはお互いにとって大きなメリットでした。

以後。遼と北宋が金に滅ぼされるまで百数十年近く続きました。

宋の発展は「澶淵の盟」があったからこそ。それがなければ遼と西夏に滅ぼされるか、内乱で滅亡したでしょう。それくらい重要な盟約です。

 

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澶淵の盟の内容

和睦の誓書は最初に宋から契丹に送られ、その返答として契丹から宋に誓書が送られました。宋と契丹の両方が送った誓書の内容を紹介します。

宋・真宗 から契丹・聖宗への誓書

宋の真宗が契丹の聖宗に送った誓書。

景徳元年(1004年)12月7日。大宋皇帝が契丹皇帝に謹んで誓書を致す。ともに真心に従い、謹んで盟約を守ろう。

土地の物によって(契丹)軍の費用を助けるため、毎年絹20万匹、銀10万両を、使者を北朝(契丹)まで行かせるようなことはせずに、雄州まで運搬して引き渡す。

辺境地帯の州・軍はそれぞれ境界を守り、両地の人々はお互いに侵入してはならない。

盗賊が逃亡してくることがあれば互いに匿ってはならない。田畑の農作業については南北とも騒がせてはならない。

両朝の城壁や堀についてはみな従来どおりに維持し修理はしてもかまなわないが、新たに城壁や堀を築いたり運河を掘削してはならない。

誓書の規定以外はそれぞれ要求しない。必ず協力に努め永く続くことを願う。

これ以後、庶民を保護し、謹んで境界を守り、天神地祇に誓い、宗廟社陵に告げ、子孫はともにこの盟約を守り、永く伝えるべし。この盟約を違えることがあれば王朝を存続させることはできず、天が監視して滅ぼすことになるだろう。

「続資治通鑑」より

 

契丹・聖宗から宋・真宗への誓書

宋の真宗の誓書を受けて契丹の聖宗が出した誓書がこちら。

統和22年(1004年)12月12日。大契丹皇帝が大宋皇帝に謹んで誓書を致す。ともに戦を止めることを話し合い、さらに通交を議論してこのように誓いを示した。

「土地の物によって(契丹)軍の費用を助けるため、毎年絹20万匹、銀10万両を、使者を北朝(契丹)まで行かせるようなことはせずに、雄州まで運搬して引き渡す。

辺境地帯の州・軍はそれぞれ境界を守り、両地の人々はお互いに侵入してはならない。盗賊が逃亡してくることがあれば互いに匿ってはならない。

田畑の農作業については南北とも騒がせてはならない。

両朝の城壁や堀についてはみな従来どおりに維持し修理はしてもかまなわないが、新たに城壁や堀を築いたり運河を掘削してはならない。

誓書の規定以外はそれぞれ要求しない。必ず協力に努め永く続くことを願う。

これ以後、庶民を保護し、謹んで境界を守り、天神地祇に誓い、宗廟社陵に告げ、子孫はともにこの盟約を守り、永く伝えるべし。この盟約を違えることがあれば王朝を存続させることはできず、天が監視して滅ぼすことになるだろう。」

私は不才ではあるが、あえてこの盟約に従おう。謹んで天地に告げ子孫に誓おう。もしこの盟約を破ることがあれば天地の神が滅ぼすことになるだろう。

「続資治通鑑」より

内容は宋側の誓書を丸写ししてそれに同意する形で書かれています。

 

澶淵の盟の特徴

誓書を出した順番

和睦の証書を出すとき。どちらが先に出したかが問題になります。先に出したほうが「負け」と考えられるからです。

実際には1004年の契丹の侵攻は攻め込みながら和睦案を出していました。相手に譲歩させるための戦争だからです。この誓書ができる前も交渉が行われ。交渉の決定事項がこの誓書になりました。

日付を見ると澶淵の盟では先に宋が出して契丹がそれに応える形で出しています。契丹が有利な立場で交渉が進んでいることがわかります。

 

お互いに皇帝を名乗っている

契丹の皇帝も宋の皇帝もお互いに自分を「皇帝」と名乗り、相手国の君主も「皇帝」と書いています。

普通、中華王朝では他国の君主が「皇帝」や「天子」を名乗るのは認めません。格下の「王」を名乗らせます。

この時代なら高麗が宋に朝貢していますが、高麗の君主が皇帝を名乗ったら宋も契丹も怒ります。

契丹と宋が互いに「皇帝」と呼びあうのは相手国を対等の国だと認めているからです。

 

お互いに自国の元号を使っている

日本人なら自分の国の元号を使うのは当たり前と思うかもしれません。

でも中華圏では元号を決めるのは中華皇帝だけ。周辺国は中華皇帝の決めた元号を使用しなければいけません。だから高麗は宋の元号を使っています。

誓書では契丹も宋も自国の元号を使っています。相手国の皇帝が読むのがわかっているのに自国の元号を使っています。それでも問題になってません。お互いが対等の国だと認めているからです。

 

歳弊以外は普通の和平条約

澶淵の盟というと宋が契丹に贈り物(歳弊)をする内容が有名ですが、それ以外にもいくつかの取り決めがあります。

でも、境界線を守る。賊を匿ってはいけない。お互いに相手を妨害してはいけない。砦を勝手に築いてはいけない。などの内容は五代十国時代の停戦協定でよくある内容です。歳弊以外は特別なことは決めていません。

 

宋が契丹に毎年贈り物をする

澶淵の盟の最大の特徴がここ。

毎年「絹20万匹、銀10万両」を宋が契丹に支払うことになりました。

宋が領土を譲り渡す代償です。安全を保証してもらうための金銭や物ですから貢物です。でも貢物とは言いたくありません。

そこで毎年の贈り物を「歳弊(さいへい)」とよんでいます。「歳」は「年」のこと。「弊」は「布」の意味ですが贈り物のことです。毎年の贈り物という意味です。

誓書では「軍事費の援助のため(原文では 助軍旅之費)」という名目で支払いました。

とはいえ中華王朝が相手国を助けるために毎年贈り物をするなんてありません。

過去に漢の劉邦が匈奴との戦いに破れ、漢が匈奴に貢物を送っていたことがありました。その再現です。

なぜ「軍事費の援助」という表現になっているかというと。唐~五代十国時代には各地を治める節度使は都の皇帝に定期的に税(上納金)を治めます。そのときの名目が「軍を助けるため」でした。誓書は当時の常識で書かれています。

「貢物」というあからさまな表現ではありませんが「上納金」にはかわりがありません。宋としてはこの表現がメンツを守れるギリギリだったのでしょう。

「絹20万匹、銀10万両」は宋の国家予算の2%ほど。宋にとっては大した金額ではありません。

宋真宗はそれで安全が買えるなら安いと判断しました。

逆に契丹にとっては大きな収入です。これが契丹皇帝の懐に入るのです。契丹皇帝は利益を部族長や有力者に配って支持を集めます。歳弊の収入は契丹皇帝の支持を集めるのにも有効だったでしょう。

 

誓書以外で決まった内容

澶淵の盟ではとりあえず休戦と契丹が引き下がる最低限の条件だけが話し合われ。細かい内容は別の交渉で決めました。

兄と弟

聖宗が宋の真宗を兄と呼ぶ関係になりました。
聖宗が972年生、真宗が968年生。真宗が年長者なので兄です。皇帝同士が兄弟になりました。

皇帝同士の疑似兄弟なので国の付き合いには関係ありませんが。メンツが何よりも大事な宋にとって、何か上に立つ理由がほしいのです。そこで宋の皇帝は契丹(遼)の皇帝の「兄」にすることでメンツが保たれる内容になりました。

実際には宋が契丹に命令できる力はなく、宋は契丹を怒らせないように条約を守っていました。兄と弟といっても形だけです。

この部分は「遼史」では宋の皇帝が契丹の太后を叔母と呼ぶ。と書かれています。

 

相互市場

政府間同士の朝貢の貢物・返礼品とは別に民間の業者が取引を行う場所を作りました。この相互市場を宋では「榷場」といいました。

宋太宗の時代からあった制度ですが澶淵の盟の後、市場の数が増やされました。この後、宋と契丹の間で盛んに貿易が行われました。他にも宋(北宋)と西夏(タングート)、金との間でも貿易が行われています。

相互市場を利用するためには業者は役所に税を支払わないといけないので国にも税収が入ります。取引できる品物には制限があり。軍需物資の取引は禁止されていました。生活に必要な物や贅沢品は契丹でも大きな需要がありました。

儲かると分かれば遊牧民もむやみに襲ってきません。

物が売れれは国民も豊かになり国内の経済活動も盛んになります。相互市場はお互いの国にとって大切な収入源になり、契丹も宋も経済的に潤いました。

宋が経済発展した理由の一つが相互市場を有効活用したことです。宋は唐ほど開かれた国ではありませんが。民間貿易は行っていました。

逆に明は貿易を制限して朝貢にこだわったので経済力が弱くなり貿易を求める人達との間にトラブルが多発、国力を消耗しました。

メリット・デメリット

澶淵の盟は平和条約でその中身は宋に不利なものでしたが。この和平があったおかげで宋と契丹は余計な戦争をせずにすみ、お互いに貿易ができて経済が発展しました。両方にとってメリットのある条約でした。

契丹が宋と和睦したのでタングート(西夏)は自力で宋に対抗するのを諦め和睦しました。契丹が宋と戦ってくれるからタングートも宋と戦っていられたのです。これも澶淵の盟の意外な効果です。

逆にデメリットもあります。

契丹は毎年決まった収入があるので戦わなくても物や金が手に入ります。契丹人の勇猛さは衰え贅沢になっていきました。

契丹は王朝内部での争いで弱体化して金に滅ぼされるのですが。贅沢に慣れて堕落したのも滅亡した理由の一つかもしれません。

宋にとっては歳弊の前例を作ってしまったので西夏にも歳弊を贈ることになりました。契丹にはさらに増額。その後建国した金にも歳弊することになってしまいます。他の支出が増えたこともあってやがて宋は赤字財政になりました。赤字の主な理由は人件費ですが。歳弊の負担も無視できません。宋(北・南)は増税・反乱の悪循環に陥ってしまいます。

契丹や金への屈服は屈辱の歴史として中国の歴史に刻まれ漢人のトラウマになりました。宋にとっては契丹より金に負けたことの方がダメージが大きいですが。契丹はそのきっかけを作ったのでした。やがてそのトラウマが極端な中華思想や朱子学など排他的で差別的な思想を作る原因になってしまいます。

 

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