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趙匡義(光義)兄・趙匡胤を説得して宋の建国に貢献

宋 4.1 宋の皇帝・男性皇族

趙匡義(趙光義)は宋の初代皇帝 太祖 趙匡胤の弟。

趙匡胤の死後。2代皇帝 太宗になります。

戦乱の時代だった五代十国時代の後周で禁軍(皇帝を守る軍隊)の武将でした。後周の世宗 柴栄の死後。

後周の軍部がクーデターを起こして趙匡胤が皇帝になりました。このとき、クーデターの中心的な働きをしたのが趙匡義です。

兄・趙匡胤が即位して宋が建国。趙光義と名乗りました。

宋では宰相以上の地位にいました。趙匡胤の死後は趙光義が皇帝になります。

皇帝になるまでの趙匡義(趙光義)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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趙匡義の史実

いつの時代の人?

生年月日:939年11月20日
没年月日:997年5月8日

姓 :趙(ちょう)
名称:匡義(きょうぎ)→光義(こうぎ)→炅

国:後晋→後周→宋(北宋)
地位:晋王→皇帝
廟号:太宗

父:趙弘殷
母:昭憲太后杜氏

子供:真宗ほか

彼は後周末期から宋の初期の人物です。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

後普天福4年10月7日(939年11月20日)。
開封府(現在の河南省開封市)浚儀県の官舎で誕生。

最初の名前は 匡義(きょうぎ)

父は趙弘殷。
 若いころはウイグル出身の節度使 王鎔の手下。王鎔の死後は後唐の禁軍(皇帝の護衛部隊)の武将として働きました。

後唐は突厥沙陀とっけつ さだ族出身の軍閥(武装グループ)が中心になって作った国。後唐・後普・後漢・後周と主は変わりますがこれらの国を支えていたのは沙陀軍閥です。

沙陀軍閥政権は中原に進出を始めた契丹と争っていてました。「アンチ契丹」の精神は趙匡胤・趙匡義の「宋」にも受け継がれます。

趙匡胤・趙匡義は漢の名門・趙広漢の末裔と名乗り、漢人を名乗っています。

 

母は趙弘殷の正妻・杜氏。
趙弘殷が王鎔の手下だった時代に王鎔の部下の娘と結婚しました。

趙匡義は三男。兄には宋の初代皇帝になる趙匡胤がいます。

趙匡義は子供のころからできが良く、学問が好きだったといいます。

父の趙弘殷が学問好きな趙匡義のため淮南を占領したときには金銀財宝にはめもくれず書物を探して趙匡義に贈ったという逸話があります。皇帝になった太宗(趙匡義)を美化する話なのでどこまで本当かわかりません。

母の杜氏とは仲が良かったといいます。

趙匡義は父と同じように兄弟で軍人になりました。

956年。父の趙弘殷が死亡。
その後は禁軍の将軍をしていた兄・趙匡胤のもとで働きました。

兄・趙匡胤も有能な武将で、後周皇帝 世宗 柴栄の信頼を得ていました。
世宗 柴栄は戦乱の時代でバラバラになった中華統一を目指し領土拡大。契丹とも戦いました。

陳橋の変で兄を皇帝にする

959年。契丹との戦いが続くなか、後周皇帝 世宗 柴栄が急死。
7歳の皇太子 柴宗訓(恭帝)が皇帝になりました。

ところが軍の者たちは幼い皇帝が不満。成人した皇帝をたてるべきという意見が出ました。

ここで軍部はクーデターを起こします。

正史「宋史」によれば。

960年。「契丹が攻めてきた」という報告を受けた後周の朝廷は殿前都点検(近衛軍長官)の趙匡胤に軍の指揮を命じました。趙匡胤は軍を率いて出陣。

陳橋での野営中。武将たちが趙匡義と側近の趙普のところにやってきて趙匡胤を皇帝にしたいと言いました。

趙匡胤は酒を飲んで寝ていました。すると趙匡義と趙普は軍人たちとともにやってきて趙匡胤を説得。趙匡胤が答えないでいると、部下が用意してあった黄袍(皇帝の着る服)を着せ「万歳」と叫びました。そこで趙匡胤も仕方ないなと皇帝になるのを認めました。その後、趙匡胤たちは都に戻って恭帝を譲位させました。

この事件を「陳橋の変」といいます。

でも、これは作り話でしょう。

というものこのとき契丹軍が動いていたという記録は契丹側にはありません。敵の来襲は嘘でした。

都では「点検(趙匡胤の役職)が天子になる」と兵士たちが噂していました。でも宮殿にいた皇帝や皇太后にはこの噂は届きませんでした。

「黄袍」は皇帝専用の服です。店では売ってません。「黄袍」を作ったにしろ勝手に持ち出したにしろそんなことをしたら謀反になります。

また趙匡胤たちが首都・開封に進軍したときもほとんど抵抗がありませんでした。

軍部が仕組んで出陣する前から謀反を起こすつもりだったとしか考えられません。

趙匡胤が自分から進んで謀反を起こしたのか、趙匡義や軍部に説得されたのかはわかりません。いずれにしても趙匡胤の謀反では趙匡義が趙匡胤を説得したことになってますし、謀反を起こそうか迷っている趙匡胤を後押ししたのが趙匡義だったのかもしれません。

 

宋の時代

建隆元年(960年)。兄の趙匡胤が皇帝(太祖)に即位。国名は「宋」になりました。歴史上は「北宋」ともいいます。

趙匡義は名前を「光義」に変えました。皇帝と同じ漢字を使ってはいけないからです。

趙光義は「殿前司都虞候」「領睦州防御使」になりました。

潞州で李筠が反乱を起こすと太祖 趙匡胤が遠征。趙光義が首都・開封を守りました。

8月。領泰寧軍節度使。になりました。

10月。揚州の李重進を討つために太祖 趙匡胤が遠征したときも趙光義が首都・開封を守りました。

趙光義は太祖 趙匡胤の信頼を得ていました。

建隆2年(961年)6月。母の杜太后が死去。

7月。開封府尹(都知事)になりました。趙光義は開封の様々な有力者と交流を深め人脈を広げました。

開宝6年(973年)。趙光義は「晋王」になりました。地位は宰相よりも上でした。

開宝9年10月20日(976年11月14日)夜。太祖が急死。
弟の趙光義が即位。名前を「炅」に変えました。
第2代皇帝 太宗が誕生しました。

ところが太宗 趙炅の即位には即位直後から疑惑をもたれていました。

・金匱之盟:宋太宗 趙炅の疑惑の即位

 

テレビドラマ

大宋伝奇之趙匡胤 2015年、中国 演:邵峰
大宋宮詞・愛と策謀の宮廷絵巻 2021年、中国 演:塗們

 

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