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宋 真宗 趙恒(2) 宗教狂い皇帝と劉皇后の支え

宋 4.1 宋の皇帝・男性皇族

真宗 趙恒(ちょう・こう)は宋の第3代皇帝です。

真宗が即位して間もない1004年。真宗 趙恒の在位中に契丹の戦いがあり。「澶淵の盟」とよばれる条約を結びました。その結果、契丹に歳弊(貢物)を送ることになりました。でもそのおかげで宋は平和を手に入れました。

力関係では契丹が上ですが、宋と契丹はお互いの君主を「皇帝」と呼び、形の上では対等な関係になりました。契丹に契丹が南朝、契丹が北朝の南北朝時代が始まります。

趙恒の誕生から澶淵の盟まではすでに紹介しました。

・宋 真宗 趙恒 (1) 契丹と戦って「澶淵の盟」を結ぶまで

 

今回は澶淵の盟を結んだ直後から真宗の没後までを紹介します。

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澶淵の盟の影響

景徳元年(1004年)。宋は契丹と和平条約を結びました。

条約が結ばれた土地の名前をとって「澶淵の盟」といいます。

宋は契丹に毎年、絹20万疋・銀10万両を支払うことになりましたが。お互いに国境を侵害しないという約束をとりつけ。契丹との戦争はなくなりました。宋の経済力からみれば絹20万疋・銀10万両の負担はそれほど大したものではありません。一度軍を動かして戦争すればこの100倍以上のお金と人命や物に被害が出ます。平和を買ったと思えば安いものです。

真宗はこの結果に満足。最初は寇準を褒めました。

ところが王欽若ら朝廷の重臣達は異民族との屈辱的な盟約が気に入りません。

天から唯一認められ世界の支配者として君臨しているはずの中華の皇帝が野蛮人に貢物を差し出して安全を保証してもらっているのです。自分たちが偉いと思っている宋の重臣たちには、経済的負担以上に精神的なショックが大きかったのでした。

重臣たちは「こうなった責任は出兵を主張した寇準にある」と猛批判。真宗もかばえなくなり、寇準は景徳3年(1006年)に大臣を解任されてしまいます。

封禅と宗教儀式に凝る真宗

天の神と地の神を祀る

景徳3年(1006年)。王欽若の進言で真宗は「封禅」の実施を決定。

「封禅」とはかつて始皇帝が中華統一したときに行った盛大な儀式。天の神に認められた地上の君主を演出するパフォーマンスです。歴代の皇帝でも大きな権力を持つ一部の皇帝しか行っていません。

契丹との戦いですっかり落ちてしまった宋の皇帝の権威をここで上げようというのです。

でも真宗は宰相の王旦(おう・たん)の反対が心配でした。真宗は王旦に壷一杯の珠(宝石類)を入れて贈り黙らせました。王旦はもう反対しませんでした。

景徳5年(1008年)正月。真宗は王旦と王欽若に夢で神が出てきて天書を降らす夢を見た」と語りました。そこで「大中祥符」に改元。首都・開封府の門から「天書」を振らせ、大赦しました。

その年の10月。「天書」を持って泰山を登り封禅の儀式を行いました。

このとき真宗は契丹の聖宗に封禅を行う許可をもらいました。中国では封禅は天に認められた世界に唯一人の「天子」が行える儀式です。真宗が封禅をするけど見逃してくれと断りをいれたのでした。真宗は国の威信をかけた盛大な行事をするのにも契丹の許可がいると考えました。

大中祥符4年(1011年)にも天書を持って山西の汾陰に向かい地の神の儀式を行っています。

天や地の神を祀るお祭りは皇帝と臣下たちが一体になって病的なほど熱心に行ったといいます。

契丹との戦いで自信を失った真宗と宋の朝廷は「天下を支配するのは宋の皇帝だ」と見せつけたかったし、彼らはそう信じたかったのです。

道教に凝る真宗

大中祥符5年(1012年)。趙氏の祖先に「九天司命真君趙玄朗」の名が与えられ、皇宮内の延恩殿で祀られました。さらに儒教の開祖・孔子に「聖文宣王」の名を与え。

大中祥符7年(1014年)。真宗は毫州の太清官に参拝。道教の開祖とされる老子に「太上老君混元皇帝」の名が与えられました。

道教を崇拝していた真宗は都に国営の道観(道教施設)景霊宮や玉清昭応宮、太極観、地方にも太極観を建てました。道教施設を管理する役人も朝廷が派遣しました。

真宗は皇帝の権威をアピールするために盛大な儀式を行い。道教にのめり込んで様々な施設を作ったり行事を行いました。建物を作るのはもちろん費用がかかります。

封禅の儀式も皇室や臣下が参加して行列を作って都から移動。山を登るので日数と膨大な費用がかかります。

内政

役人の地位改善

宋といえば文化的な国だと思っている人がいるかもしれません。でももともと宋は五代十国時代の軍閥が作った国です。武装組織が大きくなったような国で、略奪や残虐なことも平気でしている人たちでした。遊牧民国家の契丹のほうがマシなくらいです。

そこで2代皇帝太宗は軍閥の力を弱めるため文官を増やしていました。科挙を大幅に取り入れたのもそのためです。

真宗も太宗の路線を引き継ぎました。役人の給料も増やし待遇を改善しました。宋は歴代王朝でもとくに役人の給料が高いです。

真宗は人材発掘に熱心で役人の推薦制度も充実させました。推薦の数にはノルマを付けていたので数を集めるのが優先され、有能な人材が多く集まったかは疑問です。

こうして荒くれ者集団から国家としての体裁がととのようになるのですが。逆に役人の地位や数が増えすぎて役人の人件費が財政を圧迫するようになったり、理屈ばかりで現実的な決定ができない、戦いに弱い国になるなどの弊害も出ます。

 

農業の発展

真宗は乳母・劉氏の影響もあって農業に熱心でした。農業を広めるための法律を作り、インド伝来の占城稲や緑豆を広め農作物の生産性をあげました。農具の売買は非課税にしました。また牛の屠殺を禁止、農耕用に使うようにしました。

まだ未開の地が多かった南部で開拓が進められ、太宗の時代に比べると真宗時代には耕作面積は約1.7倍に増えました(太宗時代は戦争ばかりしていたので生産性が低かったのも理由のひとつにあると思います)。

評判のあまりよくない真宗ですが、農業政策は高く評価されています。

 

晩年の真宗

澶淵の盟の後、タングート(西夏)とも和睦。大きな戦がなくなり宋の朝廷にも経済的な余裕が生まれました。

ところが経済的な余裕も真宗の治世が終わる頃には蓄えがなくなっていたといいます。

晩年。真宗は病になり体調が良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。

そこで真宗は劉皇后を政治に参加させ、体調が悪いときは決裁を代行させました。

しかし朝廷内では劉皇后、丁謂、曹利用、任中正、錢惟演のグループと、寇準、有李迪、王曾、楊億、盛度のグループが対立。最終的には劉皇后の派閥が力を持ち寇準たちは地方に左遷されます。

乾興元年(1022年)。病状が悪化。危篤状態になりそのまま死亡。
享年55歳。

 

テレビドラマ

開封府 2016年、中国 演:趙文瑄
将軍軍在上 2017年、中国 演:宋允皓
清平楽 2020年、中国 演:許毛毛
大宋宮詞 2021年、中国 演:周渝民

 

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