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趙普・趙匡胤兄弟を助けて宋王朝を作った男

宋 4.1 宋の皇帝・男性皇族

趙普(ちょう・ふ)は10世紀の北宋時代の政治家。

北宋の建国者 太祖・趙匡胤に信頼され。趙匡胤の即位を助けました。

北宋の建国後は唐末期の混乱と五代十国の国が不安定だった原因を分析。軍閥を弱体化し、皇帝の手足になる文官を多く採用して君主や朝廷の権限を強化。北宋の基礎を作りました。

当時の教養人に必須とされた儒教の四書五経は読まず、論語を愛読していました。そのため科挙には合格していませんが。合理的で冷静な判断のできる人物でした。

北宋が他の五代十国の国と違って北宋・南宋あわせて300年続くことができたのは客観的な判断のできる趙普という優れた人物がいたからだと言われます。

戦いには強くても軍人あがりの趙匡胤・趙匡義兄弟たちだけでは永く続く宋は作れなかったでしょう。

一方で損得で物事を考える趙普は賄賂や汚職にも手を染め、他の大臣との対立もありました。良い部分も悪い部分も宋を象徴するような人物です。

史実の趙普はどんな人物だったのか紹介します。

 

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趙普の史実

 

いつの時代の人?

生年月日:922年
没年月日:992年

姓 :趙(ちょう)氏
名称:普(ふ)
字:則平

国:後周→北宋

父:趙迥
母:段氏
妻:魏氏(魏国夫人)、魏氏(齊国夫人)

子供:趙承宗、趙承煦

彼は後周末期から北宋2代皇帝 太宗の時代に生きた人物です。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

922年。幽州薊県(現在の北京市大興区)で誕生。

父は趙迥。相州司馬(知事を補佐する役人)でした。

趙普は偉い学者でもなく科挙にも合格しておらず下級役人出身です。趙普は暇さえあれば「論語」を読んでいました。科挙で出題されるのは儒教の経典の四書五経で、論語は試験には出ません。でも現実の人間関係で役に立つのは論語です。

趙普は地方の役人として地道に勤務しながら地方の有力者に仕え家務や仕事の補佐など様々な仕事をこなしながら出世を目指しました。

趙普は科挙に合格していないので教養がないと言われますが。役に立たない本の知識よりも人間社会で役に立つ経験や知識を蓄えていきました。

後普の天福7年(942年)。洛陽(今河南省洛陽)の隴州巡官になりました。王勛は後普のことを高く評価していました。

後周の時代

後周顕徳元年(955年)7月。永興軍節度使 劉詞(りゅう し)のもとで働いた後。滁州軍事判官、渭州軍事判官(節度使の補佐役)などを務めました。その後、匡國軍節度使兼殿前司都指揮使 趙匡胤(ちょう きょういん)の補佐役になりました。

趙匡胤の信頼を得る

顕徳3年(956年)。周世宗 柴栄は趙匡胤に滁州を攻めさせました。ところが趙匡胤の父・趙弘殷が病に倒れます。趙普は趙匡胤の代わりに趙弘殷を看病させました。趙弘殷は感激して趙普を家族のように扱いました。趙匡胤の母も趙普を信頼、自分の子供のように扱いました。

こうして趙普は趙匡胤の家族から信頼を得て趙匡胤の側近になりました。

顕徳6年(959年)6月。周世宗 柴栄(さい えい)が死去。柴宗訓(さい そうくん)が即位。
7月。趙匡胤 は歸徳軍節度使になり、趙普は節度掌書記(書記のまとめ役)になりました。

クーデターで趙匡胤を皇帝にする

後周の軍人たちはわずか7歳の柴宗訓が皇帝になっているのが不満でした。五代十国の国々は軍閥のリーダーが皇帝を名乗っているだけの軍事政権。力がものを言う社会です。趙匡胤は周世宗 柴栄から軍の指揮を任され大きな権限を持っていました。周世宗 柴栄亡き後、最も力を持っている人物です。

そこで趙普と趙匡胤の弟・趙匡義(ちょう きょうぎ)は趙匡胤を皇帝にするため軍に根回し。趙匡胤も説得してクーデターを起こしました。

幼い皇帝を守る者はほとんどなくクーデターはあっさり成功。柴宗訓を廃し趙匡胤が新しい皇帝になりました。新しい国の国名は宋(北宋)にしました。

宋の正史では趙匡胤が皇帝になれたのは彼の人徳のように書かれていますが、実際には趙普の功績が大きかったようです。

北宋時代

建隆元年(960年)。北宋が建国。太祖 趙匡胤が皇帝になりました。

趙匡胤が皇帝になってもしばらくは柴栄時代の重臣が高い地位にいました。

趙普は右諫議大夫、枢密直学士を務めた後。李筠の討伐で功績をあげて兵部侍郎、充枢密副使になりました。その後も昇進を重ねました。

宋300年の土台を作る

乾徳2年(964年)。太祖 趙匡胤は古い重臣を解雇して趙普を宰相にしました。

趙普は唐末期の混乱や五代の国々が長続きしない理由を「地方軍閥が強く、中央が弱い。臣下が強く、君主が弱い」ことだと考えました。すでに中央の力を強化する試みは柴栄時代に行われていました。太祖 趙匡胤も柴栄の方針を引き継いでいました。趙普はさらに地方の軍閥を弱体化する政策を発案しました。

太祖 趙匡胤は趙普の提案に従って軍閥がもつ財力を削り、人事権も弱め、地方軍から中央に兵を移しました。軍閥の戦力を弱め中央軍を強化しました。軍人の権限を弱め、引退させた将軍の後任に文官出身の司令官を配置。科挙で採用した文官を多く採用、優遇する政策も進めました。他の五代の国々と違い宋が北宋・南宋あわせて約300年の長期政権になれたのも趙普のおかげと言ってもいいくらいです。

こうした政策は後の時代にはやりすぎて軍が弱くなる弊害もでたのですが。武装グループの寄せ集めみたいな宋を安定した王朝にするためには有効な方法でした。

趙普はアイデアマンで優れた政治家でした。でも太祖の信頼を武器に大きな力を持っていたので、他の大臣からは嫌われていました。富の蓄積にも貪欲な人物で賄賂をとり違法行為で蓄財しました。

でも太祖 趙匡胤は賄賂などはあまり気にしない性格で、趙普の汚職は笑って見逃していました。太祖 趙匡胤はそれで忠誠心が保たれるならかまわないと思っていました。しかしこうした風潮は後に宋が汚職天国になる理由のひとつにもなります。

趙普は太祖の息子が次の皇帝になるべきだと考えていました。趙普は太祖の弟・趙光義(ちょう こうぎ)が皇帝の座を狙っていると考え警戒。趙光義を支持する勢力とは対立していました。

でも趙普と対立する重臣たちが揃って何度も訴えた結果。太祖 趙匡胤も無視できなくなりました。

開寶6年(973年)。趙匡胤は適当な理由をつけて趙普を宰相から外し河陽三城節度使、検校太傅にしました。

976年。太祖 趙匡胤が死去。弟の趙光義(趙炅に改名)が即位しました。

太宗 趙炅の時代

二度目の宰相

太平興國2年(977年)。趙普は朝廷に復帰。太子少保に任命され。その後、太子太保になりました。しかし趙光義の即位に反対していた趙普は太宗の朝廷では重役を任せてもらえません。

太平興國4年(979年)。太宗 趙炅の北漢遠征に従軍しました。北漢は滅ぼしたものの遼(契丹)を攻めて敗北。太宗 趙炅は逃げ戻ってきました。

このとき太宗が死んだと勘違いした将兵が太祖の息子の趙徳明を即位させようとする動きがありました。太宗が生きて戻ってきて趙徳明を死に追いやりましたが。改めて太宗 趙炅の即位の正当性の問題がでてきます。

太宗は困りました。そこに趙普が手紙を書き、ある提案をしました。「皇太后の遺言」があるというのです。

太平興國6年(981年)。趙普は太宗 趙炅の即位を正当化するため「金匱之盟」を発表。太宗の即位は「太祖の弟に継がせろ」という皇太后の遺言だと言って正当化させました。

昭文館大学士になり。「梁國公」の爵位が与えられました。

秦王 趙廷美やその配下の粛清にも関わりました。このときも趙普は皇帝の兄弟ではなく、皇帝の息子が継ぐべきだと主張。今回は太宗に味方して太宗の兄弟の粛清に関わりました。

かつて敵対した太宗に味方する趙普は矛盾しているようにみえるかもしれませんが。「親子で引き継がれるべき」という考え方は変わっていません。

趙普は太宗の即位を正当化させ、太宗は趙普の政敵を排除。かつての敵は持ちつ持たれつの関係になりました。

太平興國8年(983年)。趙普は武勝軍節度使になりました。

62歳の趙普はそろそろ引退を考えており。太宗に別れの詩を書いて送り太宗もそれを読んで感激しました。

 

三度めの宰相

雍熙3年(986)。契丹で幼い皇帝が即位したと聞いた太宗は契丹を攻めましたが敗北。
それを聞いた趙普は太宗に手紙を書いて激励しました。

雍熙4年(987年)。太宗は趙普を山南東道(治今湖北襄樊)節度使にしました。

端拱元年(988年)。太宗は趙普を朝廷に呼び戻して首相にしました。

端拱二年(989年)。趙普は朝見を免除されました。

冬になると趙普は病気になりました。

趙普は引退を願い出ましたが太宗は引退を却下、趙普のもとを訪れ報酬を増やすなどして引き止めました。

その後も趙普は病気療養が続き何度も引退届けを出しましたが却下されました。

淳化3年(992年)。病気療養中の趙普が死亡。享年71歳。

太宗は大変悲しんだといいます。

 

テレビドラマ

大宋伝奇之趙匡胤 2015年、中国、 演:王絵春
大宋宮詞 2021年、中国 演:巩金国

 

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