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尚美人 は宋仁宗の後宮で一番のわがまま女だった?

北宋 仁宗正室側室 4.2 宋の皇后・側室・公主

尚美人は宋(北宋)の第4代皇帝 仁宗 趙禎の側室。

ドラマ「孤城閉」にも登場、郭皇后と仲の悪いところを見せます。でもドラマの尚氏はあまり目立った存在ではありません。

でも史実の尚美人はドラマ以上に力を持つ側室でした。

もしかすると仁宗の側室で一番評判の悪かった側室かも知れません。

史実の尚美人はどんな人物だったのか紹介します。

 

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尚美人の史実

姓:尚(しょう)氏
不明:不明

国:宋(北宋)
地位:美人→無(廃出宮)→美人→充儀(追贈)

生年: 不明
没年: 1050年
父:不明
母:不明
夫:仁宗
子供:商国公主(荘宣大長帝姫)

尚美人の出身地や家族はわかりません。
おそらく彼女は貧しい家庭で生まれ、困難な子供時代を過ごしたのでしょう。

彼女は成功した後、自分の両親を探すために人を雇ったこともありました。

宮廷に入った時期は不明。下級の側室として仕えました。すぐに美人に昇格しました。

同じ時期に美人だった楊美人とは仲がよかったようです。入宮した時期も近かったのかも知れません。

その後、彼女と尚美人は二人とも仁宗の寵愛をうけました。

楊美人と尚美人は郭皇后とは仲が悪かったようです。

 

劉太后の死後、郭皇后と争いが激化

郭皇后廃位の原因を作る

明道2年(1033年)。劉太后が死去。

郭皇后は仁宗から冷たくされていましたが劉太后の後ろ盾がありました。でも劉太后の死後。郭皇后は後ろ盾を失いました。

明道2年(1033年)。臘八節(ろうはちせつ)の日。仁宗 趙禎は皇后や妃嬪たちをつれてお祝いしました。ところがそのとき妃嬪たちの間で口論が起こりました。尚美人が妃嬪たちの前で郭皇后の悪口を言うと、怒った郭皇后が尚美人をひっぱたこうとしました。それを見た仁宗は止めに入りましたが、勢いのついた郭皇后の手は仁宗の顔を叩いてしまい、仁宗の顔には傷ができてしまいます。

仁宗は腹が立ちました。そこで内侍の閻文応の勧めで宰相の呂夷簡に相談。日頃から郭皇后に不満を持っていた呂夷簡は郭皇后を廃するように提案。もともと郭皇后に不満があった仁宗は郭皇后の廃位を決定してしまいました。

臘八節:旧暦12月8日に豊作を祈願するお祭り。仏教と儒教でも祭日になっています。

 

郭皇后追放後に力を持つ

臣下たちの派閥争いにも変化が

郭皇后が廃された後。新皇后もすぐには決まりませんでした。当時はまだ妃がいません。後宮で力を持ったのは尚美人と楊美人です。後宮では彼女たちを中心にした派閥が力を持ちました。

でも後宮には郭皇后に同情する人たちもいました。

また皇后の廃位は後宮内の派閥争いだけでなく。臣下にも影響を与えました。臣下たちにも彼女たちを支持する者と郭皇后をする者がいて、臣下の派閥争いにも影響しました。

当時は尚美人に取り入ろうとするする者もいて。趙徳芳(太祖の四男)の孫・趙従演までも尚美人の侍女として婢女を献上しました。

尚美人は両親を探すために趙従湜に依頼しました。趙従湜も趙徳芳の孫でした。臣下だけでなく皇族にも彼女を支持する人がいました。当時はそのくらい仁宗の寵愛が大きかったのです。

趙従湜のおかげで尚美人の家族は見つかりました。父親は都の役人になり、家族にも多くの褒美が与えられました。

 

命令を出して行政に介入

詳しい時期は不明(おそらく景祐年間)ですが龐籍が開封府の判官をしていたときのこと。

尚美人は開封府に内侍を派遣。商工業者の税を免除する「教旨」を出しました。

宋では皇后や皇太后の出す命令を「教旨」と言います。当時の仁宗の後宮には皇后はいませんが皇太后(楊太后)はいます。でも美人(正四品の側室)が出していいものではありません。しかも正四品の側室が政治に介入して命令を出したのは過去に例がありません。

免税なら良いことではないかと思うかも知れません。でも朝廷や開封府(都庁みたいなもの)の決定で皆に行うなら問題はないのですが。側室の個人的な判断で行うのは問題です。それを許せばこの先も皇帝や朝廷の知らないところで勝手な命令が出されて別の問題も起こるかもしれません。

開封府の判官・龐籍はルールを破った尚美人を批判しました。仁宗は尚美人の教旨を伝えた内侍を罰し、教旨は無効としました。

正四品の側室が皇后並みの権限を持つ「教旨」を出すとはどれほど仁宗が尚美人を甘やかしていたかがわかります。尚美人はすでに皇后になったつもりになっていたのかも知れません。

 

尚美人、楊美人のもとに通い続ける仁宗

郭皇后がいなくなると仁宗は楊美人と尚美人のいる後宮に通い続けました。郭皇后というブレーキ役がいなくなったので仁宗は堕落した生活をおくりました。体調をくずすほど後宮に通い続けました。

 

力を失う尚美人

後宮を追放される尚美人

楊太后や大臣が心配して注意しますが仁宗は聞きませんでした。後宮の宦官・閻文応がうるさく言い続けようやく仁宗は楊美人と尚美人を宮中から追放することにしました。「教旨」の件も影響があったかも知れません。

景佑2年(1034年)。尚氏は宮殿を出され洞真宮に移され、道教の祭祀を行うことになりました。楊氏は瑤華宮に移されました。

後宮に復帰

慶曆5年(1045年)。尚氏は許され、宮廷に戻り「美人」に復帰しました。

尚美人は臣下からも評判が悪く。美しさと妖艶さで仁宗を惑わせる存在になるかもしれないと反対する臣下もいました。

でも後宮にはすでに張貴妃がいて仁宗の寵愛を集めていたので尚美人はかつてのような力を取り戻すことはありませんでした。

皇祐2(1050年)9月。尚美人は死去。
死後、「充儀」の位が送られました。

仲の良かった楊美人は復帰は早かったのですが、尚美人は復帰が遅れました。また楊美人は死後も昇格していますが、尚美人は昇格していません。

楊美人は要領がよくて人前で騒いだりせず、仁宗にも謙虚なところをみせていたのですが、尚美人は行いが目立っていました。郭皇后との争い政治への介入や様々な行いも問題になっていたようです。

それでも後宮に戻ってきたのは仁宗から気にかけられていたからでしょう。

ドラマでは仁宗時代の悪女は張貴妃のように描かれます。たしかに後宮の中で影響力を持っていたのは張貴妃ですし。わがままを言うこともあります。でも張貴妃は政治には介入していませんし。皇后には直接喧嘩をしかけていません(裏ではわかりませんが)。

怖いもの知らずでいえば尚美人の方が上です。

 

テレビドラマ

孤城閉 2020年、中国 演:俞思遠 役名:尚娘子
 郭皇后とは仲が悪く、臣下から賄賂をもらっているのは史実に近い設定ですが。歴史上の尚美人とくらべると小物です。

 

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