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福康公主・宋仁宗最愛の長女は結婚相手が嫌で自殺未遂

宋 4.2 宋の皇后・側室・公主

 

福康公主は11世紀 宋の4代皇帝 仁宗 趙禎の長女。

何度か称号が変わったので兗国公主、沂国公主、岐国公主、楚国大長公主、荘孝明懿大長帝姫という呼び方もあります。

仁宗に最も可愛がられた娘でした。
仁宗は生母の李辰妃に親孝行したかったので、李辰妃の甥・李瑋と福康公主を結婚させました。

ところが福康公主は夫になった李瑋が嫌い。問題を引き起こします。

中国ドラマ「孤城閉」の趙徽柔(ちょう びじゅう)のモデルになった人物です。

史実の福康公主はどんな人物だったのか紹介します。

 

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福康公主の史実

いつの時代の人?

生年月日:1038年
没年月日:1070年2月22日

姓 :趙氏
名称:不明

国:宋(北宋)
地位:公主
称号:福康公主、兗国公主、沂国公主、岐国公主、楚国大長公主、荘孝明懿大長帝姫

父:仁宗 趙禎
母:昭節貴妃 苗氏
夫:李瑋

子供:なし

日本では平安時代になります。

 

溺愛されて育ったお姫様

宋仁宗の時代。
寶元元年(1038年)に福康公主が誕生。

父は仁宗 趙禎
母は側室の 苗氏(昭節貴妃)

福康公主は仁宗の長女です。名前は不明。「福康公主」の称号が与えられました。

仁宗は何人もの子供が生まれましたがほとんどが幼くして死亡しています。仁宗の子で成人したのは福康公主が最初。福康公主は10年以上、ほぼ一人っ子状態でした。

そのため仁宗は福康公主を非常に可愛がりました。

福康公主も父思いで。仁宗が病気になったときには素足と散髪(結った髪を解いて伸ばした状態にすること)で天に祈りました。

 

 

李瑋と結婚

仁宗の生母は李辰妃ですが。ずっと劉太后(章献明粛皇后)を生母だと思っていました。仁宗が本当の生母を知ったのは劉太后や李辰妃の死後でした。仁宗は生母の生前に親孝行できなかったのを非常に悔み、李辰妃の弟・李用和を重く用い、李用和の子たちにも官職を与えました。

1047年。仁宗は李用和の次男・李瑋(り い)に福康公主を嫁がせることにしました。福康公主が9歳のころにはすでに相手が決まっていたのです。

福康公主を李瑋と結婚させるため、仁宗は慣例を破りました。それまで皇帝の娘は建国に功績のあった重臣の家系や名門貴族に嫁がせるのが慣例になっていました。でも李用和はかつては街中で紙銭を売って生計をたてていた庶民出身です。

また宋ではいとこの結婚も禁止していましたが仁宗はその決まりも破りました。

嘉祐元年(1056年)。仁宗は病気になったので公主の婚儀は延期。

嘉祐2年(1057年)。仁宗は回復。福康公主と李瑋を結婚させました。

20歳の福康公主に「兗国公主」の称号を与え数十万銭を費やして公主のための豪邸を建て。月千貫の給料を支給しました。皇太子並みの待遇です。

母の淑儀 苗氏は「賢妃」になりました。

 

うまくいかない結婚生活

駙馬(皇帝の娘婿)李瑋は美形ではありません。むしろ醜いと言われます。飾らない素直な性格で、おしゃべりも得意ではありません。もともと庶民なので立ち振舞いに貴族らしさがありません。福康公主はそんな李瑋が嫌いでした。

李瑋にも水墨画の特技がありましたが、公主はそれでは満足しません。見た目が重要なのです。

福康公主は李瑋を下僕のように扱いました。福康公主の乳母の韓氏や侍女たちも李瑋を見下していました。

李瑋は福康公主派の重臣からも虐待をうけ、その重臣が弾劾をうけたこともあります。

もともと李用和は科挙に合格していません。李辰妃の弟というだけで取り立てられ出世した人物です。李用和とその子らは重臣や科挙で受かった役人からは妬まれていました。

 

美形の宦官・梁懐吉と仲良くなる

そんな不満だらけの結婚生活でしたが。そんな彼女の救いが美形で立ち振舞も気品のある宦官の梁懐吉(りょう・かいきつ)でした。梁懐吉は公主府を管理するために内侍省的から派遣されている宦官です。

嘉祐5年(1060年)。ある月夜の晩。公主と梁懐吉はちょっとした宴会を開き、酒を飲んでいました。

すると李瑋の母の楊氏が覗き見していたのを発見します。

もともと福康公主は下品で卑しい出自の楊氏は嫌いでした。楊氏も礼儀正しい人ではありません。それでも福康公主には皇帝の娘という立場があるので表立った争いは起きていませんでした。でもこの日は違いました。

激怒した公主は楊氏に暴行を加え怪我させました。

怒りの収まらない公主は夜間に宮殿に向かい、父の仁宗に不満をぶちまけました。

太祖以降。夜の宮殿は門を開けてはいけないのが決まりです。でも仁宗は公主が開門を要求すると門を開けさせました。

重臣たちは仁宗に対して、福康公主が夜間に宮殿におしかけた理由を説明するよう要求。非難も殺到します。

でも仁宗は福康公主を罰したくありません。

そこで仁宗は梁懐吉たち福康公主に仕える宦官や侍女9人を別の場所に異動。梁懐吉は洛陽の離宮で掃除させました。

一人になった福康公主は自殺未遂を繰り返す

嘉祐7年(1062年)。福康公主は宮殿に戻り。李瑋と別居しました。李瑋は衛州に左遷されました。

母・楊氏の面倒は兄の李璋が見ることになりました。福康公主の乳母・韓氏が屋敷の衣服や工芸品を盗んだという理由で追放。侍女たちも解雇されました。

身近な者がいなくなった福康公主は「梁懐吉を戻さなければ宮殿に放火して自殺する」と脅しました。公主に怪我はありませんが、困った仁宗は梁懐吉と張承照を戻しました。

梁懐吉が戻った後も福康公主は自殺未遂を繰り返しました。

そんな福康公主と仁宗に楊畋、司馬光、龔鼎たち臣下は不満。「駙馬(公主の夫)を追放したのに公主の側近を呼び戻すのはおかしい。公主を教育すべき」と抗議しましたが仁宗は無視しました。

苗賢妃の婿抹殺計画

一方、公主の生母・苗賢妃は娘が気の毒で、結婚を離婚させたいと思っていました。

そこで友人の兪充儀と相談。宦官の王務滋を李瑋の家に内官(家の管理をする人)として送り込み、彼を監視させました。

でも李瑋は慎重で用心深いので問題点を見つけることができませんでした。

その後、王務滋が李瑋を毒殺すべきと提案。苗賢妃と兪充儀は仁宗に李瑋を賜死させるようにお願いに行きました。

仁宗は何も言いませんでした。曹皇后と都知の任守忠が反対したので李瑋殺害計画は中止になりました。

離縁成立

その後。李璋が「弟と公主を離縁させて欲しい」と皇帝に訴えでたので、仁宗は認めました。

司馬光はすでに処分を受けているので公主にも罰を与えるべきと訴え。

仁宗は公主を叱り、李瑋に金200両を与えました。

嘉祐7年(1062年4月16日)。公主は「兗國公主」から「沂國公主」に格下げ。

李瑋は建州観察使に任命され「駙馬都尉頭銜」からは外されました。

再婚

嘉祐7年(1062年12月29日)。仁宗が重病になりました。

仁宗は公主を「沂國公主」から「岐國公主」に格上げ。李瑋と再婚させました。

李瑋は安州観察使を外され再び駙馬都尉になり、都に戻ってきました。

福康公主の最期

嘉祐8年(1063年)。仁宗が死去。又従兄弟の英宗が即位しました。

英宗は公主に「越国長公主」の称号を与えましたが。仁宗の妻子には冷たく。自分の妻子に宮殿を明け渡すように命令しました。

公主は英宗からの援助がうけられなくなり、李家で暮らすしかありません。

わがまま放題できた仁宗時代とは待遇が全く変わってしまいました。

治平4年(1067年)。英宗が死去。神宗が即位しました。
神宗により楚国大長公主に昇格。

その後。公主は病気になったので神宗は医師を派遣しました。

熙寧3年正月7日(1070年2月26日)。病死。享年32。

神宗は公主の家に行って酒を飲み弔問しました。

戻ってきた神宗は李瑋が治療の妨害をしていたこと、公主の服や寝具にシラミが湧いていたこと。公主が自分で薪をくべようとして火傷したことを泣きながら大臣に報告。

全ては李瑋の責任だとして、李瑋を郴州團練使に降格して陳州に左遷しました。

ただし。公主が生前出していた李瑋の息子・李嗣徽の昇格の願いについては認め。李嗣徽を供備庫使にしました。

神宗によって秦国大長公主の位が与えられました。

元符3年(1100年)。徽宗から「周国陳国大長公」、政和4年(1114年)「荘孝大長帝姫」の位と「明懿」の諡号が与えられました。

 

テレビドラマ

孤城閉 2020年、中国 演:任敏 役名:趙徽柔
 ドラマの中では趙徽柔は曹評に恋していましたが引き裂かれて李瑋と結婚。楊氏からも嫌がらせを受け。梁懐吉からは想いをよせられる設定。歴史書の福康公主よりも共感を得やすいように描かれています。

 

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