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撻覧阿缽(たつらんあはつ)は皇太妃 蕭胡輦の愛人

契丹 9 その他の国や民族

撻覧阿缽(たつらんあはつ)は10世紀の契丹の人物。

「撻覧阿缽」と書いて何と発音したのかはわかりません。

皇太妃 蕭胡輦(しょう・これん)の恋人です。

蕭胡輦は5代皇帝 景宗 耶律明扆(やりつ・めいい)の叔母でもあり義理の姉になる人物。

蕭胡輦は夫の耶律罨撒葛(やりつ・えんさつかつ)の死後。美青年の撻覧阿缽を気に入って愛人にしました。馬を世話する奴婢だったといいます。

撻覧阿缽とはどのような人物だったのか紹介します。

 

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撻覧阿缽とは

撻覧阿缽を恋人にした蕭胡輦とは

蕭胡輦は大契丹国(遼)の5代皇帝 景宗 耶律明扆(やりつ・めいい)の正室・蕭綽(しょう・しゃく)の姉。

蕭胡輦は太平王 耶律罨撒葛(やりつ・えんさつかつ)と結婚。太平王は4代皇帝 穆宗の弟。穆宗が殺害され、景宗 耶律明扆が即位すると一時逃亡していました。景宗は耶律罨撒葛を許し、皇太叔の称号を与えて北方の守りにつかせました。皇太叔 耶律罨撒葛が病死後。罨撒葛の指揮していた軍を皇太妃 蕭胡輦が引き継ぎ、そのまま北方の守りにつきました。

契丹はかつてウイグルが建築した可敦城(現在のモンゴル・トール川畔)を拠点に北西方面の拠点にします。蕭胡輦は北西方面軍の総司令。実際に軍団を率いて戦うのは一族の蕭撻凜(しょう・だつりん)が行っていたようです。

972年に耶律罨撒葛が病死した後、蕭胡輦が独身だったかどうかは諸説ありです。

現代の研究者の中には韓徳讓(かん・とくじょう)の従兄弟・韓瑜(かん・ゆ)と再婚したと主張する人もいますがはっきりとした証拠はありません。その韓瑜も987年に死亡。

いずれにしろその後は独身でした。

撻覧阿缽とは

時期はよくわかりませんが。蕭胡輦が北西方面を守っていた時、領内の馬を見て回っていると馬の世話をしている奴婢の中に若くて美形の男を発見。蕭胡輦は撻覧阿缽(たつらんあはつ)という名の男を気に入って宮殿に連れて帰りました。

その後。上京にいる蕭太后(蕭綽:しょう・しゃく)のもとに皇太妃 が卑しい男と付き合っていると言う報告が入りました。蕭太后は撻覧阿缽を上京に呼び出して暴行を加えました。蕭胡輦は蕭太后に撻覧阿缽を返して自分の夫にすように願いました。すると蕭太后は撻覧阿缽を返して許可しました。

契丹人の女性の結婚はわりと自由です。庶民は恋愛結婚しますし再婚もあります。さすがに后族といわれる名門貴族になると恋愛結婚はできません。

皇太后の姉が奴婢と再婚するのは反対も多かったでしょう。でも身分の高い女性が夫の死後、愛人を作るのは珍しくありませんから。恋人がいても不思議ではありません。

その後。どういうわけかわかりませんが蕭太后は胡輦を懷州に幽閉。その後、蕭胡輦は賜死になりました。撻覧阿缽もその時に死亡したのでしょう。

 

謎の多い人物

撻覧阿缽の記録は少なく。契丹の正史「遼書」には登場しません。南宋で書かれた「契丹國志」という歴史書にだけ登場する人物です。何しろ「契丹國志」は敵国で書かれたものなので「遼書」に比べると信ぴょう性が劣るのですが。撻覧阿缽については他に資料がないのでそれを頼りにするしかありません。

もしかすると奴婢ではなかったのかもしれません(ドラマ「燕雲台」では平民です)。蕭太后は最初は姉が撻覧阿缽を一緒になるのを嫌がりました。何か嫌いな理由があったはずです。それが何かわかりません。遊牧民社会は意外と血筋を大事にします。身分や家柄の可能性は高いですね。

 

ドラマ「燕雲台」の撻覧阿缽

 

「燕雲台」の撻覧阿缽は村に住む一般人。馬飼いの青年という設定。

撻覧阿缽を気に入った蕭胡輦が国阿輦斡魯朶に連れて帰り将軍にします。

蕭燕燕が南朝(宋)と戦ったときも撻覧阿缽は斡魯朶の兵を率いて参戦しました。

無邪気な青年。蕭胡輦のことが好きなのですが。逆に言うと女性にはモテるけど血気盛んな若者といったかんじ。

一方、聖宗 耶律隆緒は国阿輦斡魯朶(こくあれんおるど:胡輦の持つ軍団、劇中では最後まで残った皇族の私兵的扱い)を解体して皇帝の管轄下に置こうとしています。

もともと上京の支配者を快く思っていません。撻覧阿缽は自分たちの力が奪われるのを嫌がっています。そのため何かと蕭燕燕たちに反発。それが最終的に蕭燕燕と蕭胡輦の対立の原因に。今まで一族や国のためと思って抑えてきた蕭胡輦の不満を爆発させてしまいます。

燕雲台 2020年、中国 演:盛一倫

 

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