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皇太妃 蕭胡輦(しょう これん)契丹の領土を守った女司令官

契丹9 その他の国や民族

蕭胡輦(しょう・これん)は11世紀の契丹国(遼)の貴族。

后族という皇后の出身一族。蕭家は契丹の名門で、何人もの皇后がでています。

父の蕭思温(しょう・しおん)は契丹で宰相を務める実力者。蕭思温の娘は三人とも皇族と結婚しました。胡輦が結婚したのは耶律 罨撒葛(やりつ・えんさつかつ)です。

しかし皇帝になったのは胡輦の妹・蕭綽(燕燕)が嫁いだ耶律明扆(景宗)でした。

罨撒葛は若くして病死。

蕭胡輦は「皇太妃」の称号を与えられ罨撒葛が率いていた軍団を受け継ぎました。その後、領土内で反乱がおきたときは蕭胡輦が軍団の司令官になって反乱鎮圧を指揮しています。

遊牧民は体育会系の男社会ですが女性も活動的です。漢人社会に比べると女性の地位は高いです。部族長クラスの妻にはそれなりの働きが求められ、部族長の夫が戦死したら妻が部族を率いて戦いに参加することもありました。

契丹もそうした習慣を受け継いでいました。蕭胡輦も軍団司令の地位を夫から受け継いだようです。

しかし皇太后になった妹の蕭太后と対立。

最後は捕らえられ自害させられています。

蕭胡輦とはどのような人物だったのか紹介します。

 

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蕭胡輦(しょう・これん)の史実

生年月日:不明年
没年月日:1007年

国:遼(りょう)、大契丹国(だいきったんこく、イェケ・キタイ・オルン)

姓 :蕭(しょう)
名 :胡輦(これん)

称号:斉妃、皇太妃
父:蕭思温
母: 燕国公主・耶律呂不古

妹:
蕭伊勒蘭 趙王・耶律喜隱の妻。
蕭綽 景宗・耶律 明扆の妻。

夫:
耶律 罨撒葛(やりつ・えんさつかつ)太平王
韓瑜?
撻覽阿缽

子供:缽國娘子

彼女は遼の第5代 景宗~6代 聖宗の時代に生きた人物です。

日本では平安時代になります。

蕭皇后のおいたち

蕭氏は一族から皇后が出る契丹の名門

蕭胡輦(しょう・これん)がいつ生まれたのかは不明。

父の蕭思温(しょう・しおん)は北府宰相。4代・穆宗、5代・景宗に仕えた重臣です。

母は燕国公主・呂不古。2代皇帝・太宗 耶律 堯骨(やりつ・ぎょうこつ)の娘です。

穆宗の兄弟・耶律罨撒葛(やりつ・えんさつかつ)と結婚。

969年。穆宗が死亡。妹・蕭綽の夫・景宗が即位しました。

夫の罨撒葛は景宗の即位後に斉王になりました。
蕭胡輦は斉王妃になりました。

 

罨撒葛の死後

972年。罨撒葛が病死。罨撒葛には「皇太叔」の称号が与えられました。
蕭胡輦は「皇太妃」になりました。

皇太妃・蕭胡輦は夫の持っていた軍の指揮権を引き継いだと考えられます。

982年。景宗が死去。
聖宗が即位。聖宗は幼いので蕭太后が摂政になり政治を行っていました。

986年(統和4年)。皇太妃は聖宗に衣裳とラクダを献上しました。

北西部で反乱を鎮圧

994年(統和12年)。タングート(チベット系の遊牧民)が国境を超えて契丹領に侵入。皇太妃は蕭太后の命令を受けて一族の蕭撻凜(しょう・たつりん)とともに烏古、永興宮分軍を率いて出陣しました。

997年(統和15年)3月。皇太妃率いる契丹軍は戦いに勝利。契丹は北西部の領土を拡大。

5月。契丹に服従していた遊牧民の敵烈部が詳穩(役職の名前)を殺して逃走、遊牧民の阻卜部(ケレイト)と一緒に反乱を起こしました。

皇太妃・蕭胡輦配下の武将だった蕭撻凜は軽騎馬隊を率いて追撃しました。反乱軍を追討。阻卜部の半分を捉えて服従させました。

このとき皇太妃は西域を守り敵対していた烏古、阻卜部(ケレイト)を服従させました。

契丹は現在のモンゴルのトゥーラ河畔にある可敦(ハトン)城を改修しました。

可敦城はかつてウイグル帝国が建てた城。唐からウイグルに来た和親公主のために造られました。可敦(ハトン)とはテュルク語(ウイグル、突厥、トルコ系民族が使う言葉)で「王妃」を意味します。テュルク語は突厥、ウイグル、契丹、トルコ系民族が使う言葉。広い範囲の遊牧民社会で使われていました。

可敦城はウイグル滅亡後、荒れ果てていましたが。契丹が占領して再利用。北西部の守りの拠点として使用しました。蕭胡輦はこの地で契丹北西部の防衛を担当します。

1004年(統和22年)。皇太妃・蕭胡輦の要請で可敦城に建安軍節度使司が配置され、様々な部族から2万の兵が集められ常駐しました。

可敦城は契丹が西域を支配するための重要な拠点になりました。

その後。皇太妃は蕭撻凜とともに宋の国境に向かい城を建設しました。

撻覽阿缽と愛人関係になる

あるとき、皇太妃・胡輦は馬番をしている奴婢の中に撻覽阿缽(たつらんあはつ)という美男子がいるのをみつけ気に入って愛人にしました。

名前からすると漢人ではなく遊牧民の若者のようです。音読みでは(たつらんあはつ)と読みますが、当時の人が「撻覽阿缽」をどう発音していたのかはわかりません。もちろん現代中国語の発音とも違います。

蕭太后は姉が奴婢を愛人にしているのを知ると、撻覽阿缽を捕まえて400回の鞭打ちにして二人が会うのを禁止しました。蕭太后も韓徳讓を愛人にしていました。愛人がいることが問題ではなく、撻覽阿缽の身分が問題だったのです。

その後、皇太妃は蕭太后に手紙を出し撻覽阿缽と結婚したいと訴え申請。1年後。蕭太后は皇太妃と撻覽阿缽の結婚を認め、撻覽阿缽を皇太妃配下の将軍にしました。

 

蕭太后と対立して自害に追い込まれる

1006年(統和24年5月)。皇太妃・胡輦は蕭太后と対立。胡輦は謀反の罪で囚われ懐州に幽閉になりました。

一説には二人の間には経済的な問題(貿易の利権がらみ?)で対立があったとも言います。

同じころ。妹の蕭夫人も逮捕され幽閉されました。こちらも蕭太后を暗殺しようとした罪だといいます。

他の者は生き埋めになったといいます。

1007年(統和25)6月。皇太妃胡輦は幽閉先で賜死になりました。

 

韓瑜と結婚していた?

一部の学者の中には。宋の記録「乘軺錄」の内容から罨撒葛の死後。韓徳讓(かん・とくじょう)の従兄弟、韓瑜(かん・ゆ)と再婚したと考える研究者もいます。韓瑜は987年(統和5年)に死亡。その後、知り合ったのが撻覽阿缽です。

この説が本当なら蕭胡輦は3回結婚していることになります。

遊牧民は女性も再婚が可能。中華王朝も唐の時代までは王侯貴族の女性が夫以外に愛人をもっていたり、再婚したりするのは珍しいことではありませんでした。

 

テレビドラマ

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