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狼殿下:疾沖/李炬嶢のモデル 李継嶢とは?

五代十国9 その他の国や民族

中国ドラマ「狼殿下」に登場する 疾沖(しつちゅう)/李炬嶢(り・きょぎょう)にはモデルになった人がいます。

それは10世紀の中国、五代十国時代の普国の川王 李継嶢(り・けいぎょう)です。

普国は後梁と激しく戦い。後梁を滅亡させ。
その後は、普王・李存勖は皇帝を名乗り、国名も後唐に変えます。

李継嶢は李存勖の五男です。

ドラマ「狼殿下」でも李炬嶢は溍国の王子。溍王の息子です。

ドラマの李炬嶢とモデルになった李継嶢について紹介します。

 

 

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疾沖(しつちゅう)/李炬嶢(り・きょぎょう)

演:肖戦

賞金獵人→溍国川王

賞金稼ぎの謎の男。溍国の川王ですが今は地位を捨てて放浪していました。馬摘星に出会い惹かれるようになります。

馬家殺害の件を知った後、溍国川王に復帰。一度は馬摘星と結婚するものの馬摘星の気持ちを知り彼女を自由にして。そして暴政を行う煬国皇帝を倒したあとは放浪の旅にでます。

 

李炬嶢のモデル・川王 李継嶢(り・けいぎょう)

李炬嶢(り・きょぎょう)のモデルは李継嶢(り・けいぎょう)

10世紀。五代十国時代に生きた後唐・普国の王子です

五代十国

普王 李存勖の五男

父は普王 李存勖(り・そんきょく)

母は不明。

李継嶢は李存勖の五男です。

爵位はドラマと同じ 川王(せんおう)。

父の李存勖(り・そんきょく)は沙陀(さだ)軍団の長。

沙陀は突厥系の民族。遊牧生活を止めて唐国内で兵士・傭兵として生きてきました。李存勖の祖父・朱邪赤心が唐に従って功績をたて「李」の国姓をもらいました。その子孫は代々「李」を名乗っています。

普王 李存勖の佐陀軍団は、唐を滅亡させた朱全忠の後梁とは激しく争っていました。契丹とは争ったり服従したりを繰り返していました。後梁と戦っている間は契丹と有効を保ちました。

李継嶢は李存勖の五男。

李継嶢の詳しい人生は分かっていませんが、兄たちとともに兵を率いて戦っていたと思われます。

普から後唐へ

923年。普王 李存勖は後梁を滅ぼしました。
李存勖は皇帝(荘宗)を名乗り国名を「唐」にしました。李存勖は自分たちが唐の後継者だと主張しました。歴史上は「後唐」といいます。

925年。荘宗 李存勖は長男の李継岌には魏王の爵位を与えました。李継潼、李継嵩、李継蟾、李継嶢に光祿大夫、檢校司徒の地位を与えました。

926年。荘宗 李存勖は戦いは強いのですが自己中心的なため、禁軍(親衛隊)の兵たちに反乱を起こされ殺害されました。

そのころ李存勖の仮子・李嗣源(り・しげん)は敵を討つため遠征していましたが。遠征軍の将兵に推されて皇帝を名乗ります。李嗣源は魏王 李継岌の軍と戦って勝つと李存勖の兄弟を殺害。後唐の2代皇帝(明宗)に即位しました。

李継嶢たち兄弟は殺害は免れたようですが、どういう扱いを受けていたのかよく分かっていません。

 

後蜀に避難?

933年。明宗 李嗣源の死後。後唐の国内は乱れました。
このとき荘宗 李存勖の息子たちは頭を剃って僧侶になりました。この中に李継嶢がいたかもしれません。

李存勖の息子たちは山道を通って後蜀に避難しました。

後蜀の皇帝・孟知祥(もう・ちしょう)は後唐の 李嗣源とは対立していましたが。李存勖の息子たちを快く受け入れ。金銭も支給、我が子のように扱いました。

蜀(四川地方にある国)は戦乱の続いた五代十国時代でもわりと被害が少なく、経済や文化が発達していました。蜀に移り住む文化人も多く、外部の人を受け入れやすい雰囲気があったようです。

李継嶢は晩年は後蜀で暮らしたのかもしれません。

 

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