貞顕王后(慈順大妃)尹氏は李氏朝鮮王朝 9代 成宗の王妃。
11代 中宗の生母です。
韓国ドラマ「チャングムの誓い」の大妃(日本語版字幕では皇太后)の人です。
成宗の後宮に入ったときは側室でしたが。成宗の妃・斉献王后(廃妃)が廃された後。王妃になりました。
生母を失った燕山君の嫡母にもなっています。
燕山君時代には大妃になりましたが。生母の死因を知った燕山君によって危険な目にあったこともあります。
燕山君が廃された後。息子の普城大君(中宗)が王位を継ぐときにも重要な役割をはたしました。
中宗時代も大妃になり。後宮でも大きな力を持ちました。
史実の貞顕王后(慈順大妃)尹氏はどんな人物だったのか紹介します。
貞顕王后(慈順大妃)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1462年7月21日
没年月日:1530年9月13日)
名前:尹昌年(ユン・チャンギョン)
称号:貞顕王后、慈順大妃
本貫:坡平尹氏
父:尹壕
母: 延安府夫人田氏
夫:成宗 李娎
子供
中宗 李懌
順淑公主
慎淑公主
彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の時代です。
日本では室町時代の人になります。
おいたち
世祖8年(1462年)誕生。父は尹壕。
貞熹王后(7代 世祖の正室)や文定大妃(13代 明宗の生母)と同じ一族です。廃妃尹氏(10代成宗の正室)も遠い親戚になります。
坡平尹氏の家系図
父の尹壕が新昌県監(従六品、県知事)をしていたときに生まれたので 昌年(チャンギョン) と名付けられました。
1473年(成宗4年)。12歳のとき成宗の後宮に入り 淑儀(従二品)になりました。
淑儀尹氏は優しい性格だったので、貞熹王后(正祖の正室)や昭恵王后(成宗の生母・仁粹大妃)から可愛がられました。
1478年(成宗9年)。順淑公主を出産。
1479年(成宗10年)。成宗の正室・王妃尹氏が廃されました。
1480年(成宗11年)。成宗は大臣たちを呼び淑儀尹氏を新しい王妃に選んだことを発表。淑儀尹氏はその年の間に王妃(貞顕王后)に昇格しました。成宗にとっては3人目の王妃です。
成宗の王妃(貞顕王后)になる
廃妃尹氏の息子・燕山君は母を失っていましたが、元子として後継者の地位は変わりませんでした。
貞顕王后は燕山君の嫡母になって育てました。幼い頃の燕山君は貞顕王后を実の母と思っていたようです。燕山君は成宗時代の記録を読んで、実の母が廃妃尹氏だと知ります。
貞顕王后は、王妃になった後に慎淑公主と晋城大君(後の中宗)を出産しました。でも慎淑公主は幼くして死亡しました。
貞顕王后は王妃としての役目は順調にこなしていました。
1486年(成宗17年)、1489年(成宗20年)、1494年(成宗25年)に養老宴を開きました。
1492年(成宗23年)と1493年(成宗24年)には親蚕礼を行いました。
王大妃(慈順大妃)時代
1494年。成宗が死去。燕山君が即位。
尹氏は王大妃になりました。
1496年(燕山君2年)。「慈順」の称号が与えられ、その後「和恵」の称号が追加されました。この記事では「慈順大妃」と言います。
燕山君は即位後、成宗の記録を読んで生母の廃妃尹氏の死因を知り。生母の死に関わった人を次々に粛清しました。
このとき燕山君は慈順大妃尹氏の寝殿の外に来て、剣を持って「外に出てこい」と暴言をはき言いましたが。王妃慎氏(後の廃妃慎氏)が燕山君を止めました。慈順大妃尹氏は無事でした。
その後、姑の仁粹大妃が死去。燕山君が喪の期間を慣習より減らそうとすると、慈順大妃は「三年間の喪に服すのは天子から庶民に至るまで皆同じです」(実際には儒教を信じている人だけが三年の喪に服すので庶民が皆行なっているとは限らない)と言って反対。「喪の帰還の短縮には従えない」と言いましたが。
燕山君に「夫人には三従の義務があるものだが、王命に逆らうことはできるのですか」と言われ、仕方なく燕山君の命令に従いました。
中宗反正
1506年9月。朴元宗たち燕山君に不満を持つ重臣たちが反乱を起こしました。
朴元宗は慈順大妃のいる景福宮にやってきて「普城大君を王にしたいので命令してください」と言われました。
王が急に亡くなったとき、次の王の任命権は王室の長老格の大妃にあったからです。
まず、慈順大妃は朴元宗たちが宮殿に無断で侵入したのを注意した後。
「普城大君では役目に耐えられまい。世子(燕山君の息子)を即位させてはどうか」と言いました。
それでも重臣が「普城大君を王に」と言うと慈順大妃は「普城大君が王位を継ぐように」と命令を出しました。
もちろん。慈順大妃が一度断ったのは形だけです。燕山君を廃したあと燕山君の息子に継がせるつもりはありません。自分の息子に継がせるつもりです。
本当はやる気満々でも「自分に野心はなかったけど皆から求められたから自分がやる」という形にするのが儒教国では「いい人」とされていたからです。
そして柳淳汀たちが普城大君の屋敷に迎えに行きました。このとき普城大君は反乱が起きることも自分が王になることも知らされていませんでした。普城大君はやって来た柳淳汀を見て「反乱軍に殺される」と勘違いしました。でも話を聞いて王になるのを認めました。
中宗の時代
1506年9月。息子の中宗が即位しました。慈順大妃は名実ともに後宮の最高位になりました。
1507年(中宗2年)。慈順大妃は世宗と世祖、昭憲王后と貞禧王后、昭恵王后など歴代の王や王妃が仏教を信仰していたので、自分も仏教を保護して寺院を建てようとしました。ところが、大臣や弘文館などの儒学者たちが激しく反対しました。
中宗は慈順大妃の希望を尊重して寺院の建築を認めました。
1517年(中宗12年)。慈順大妃は病気を患い、斉安大君の家にしばらく逗留しました。
己卯士禍の後。昭格署の存続を巡って中宗と大臣の意見が分かれていました。昭格署は様々な儀式を行う部署。道教の影響を受けた天を祀る儀式も行っていました。儒教を信じている大臣達は昭格署を廃止しようとしていたのです。
中宗は慈順大妃が昭格署の儀式によく行っていたのを理由にして昭格署を存続させました。
中宗の2番目の王妃・章敬王后が出産のあと死亡。元子(後の仁宗)を代わりに育てていました。
中宗25年(1530年)8月22日に死去。遺言に従い夫の成宗の墓所「宣陵」に埋葬されました。享年69。
テレビドラマ
王と妃 KBS、1998年 演: ユン・ジスク
女人天下 SBS2001年 演: イ・ボヒ
宮廷女官チャングムの誓い MBC2003年 演:オム・ユシン
王と私 SBS、2007年 演:イ・ジン
インス大妃 JTBC2011年 演:コ・ジョンミン
逆賊・民の英雄ホン・ギルドン MBC、2017年 演:キム・ギョンファ
七日の王妃 KBS、2017年 演:ト・ジウォン
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