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燕山君の正室・居昌郡夫人(廃妃慎氏)は夫を心配する常識人だった

2 李氏朝鮮の妃・側室

廃妃慎氏は燕山君の正室

燕山君といえば朝鮮王朝でも最悪の暴君といわれます。

慎氏はその燕山君の正室です。

王妃慎氏は荒れる燕山君を心配して注意しましたが、燕山君が王妃の注意を受け入れることはありませんでした。

暴君の燕山君ですから王妃にも暴力をふるっていたかと思われるかもしれません。でもそうではなかったようです。身内には意外と甘かったのかもしれません。

結局、中宗をかついだ重臣たちによって反乱をおこされ燕山君は廃されました。慎氏もそのときに廃されてしまいます。

史実の慎氏はどんな人物だったのか紹介します。

 

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廃妃慎氏の史実

いつの時代の人?

生年月日:1476年
没年月日:1537年

姓:慎
名:不明
本貫:居昌慎氏
称号:居昌郡夫人
父:慎承善
母:中牟縣主(臨瀛大君の長女)
兄弟:慎守勤
夫:燕山君

子供:
廃徽順公主 李壽億
廃世子  李
昌寧大君 李誠
李仁壽 早世

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に10代燕山君の時代です。

日本では戦国時代の人になります。

おいたち

 1476年(成宗7年)。誕生。

兄の慎守勤(シン・スグン)は端敬王后の父。

慎一族は王室と婚姻関係を結んでいる名門でした。母の中牟縣主は世宗の四男・臨瀛大君の長女。世祖時代に領議政を務めた亀城君は廃慎氏の母方の叔父です。

1487年(成宗18年)。世子嬪に内定。

1488年(成宗19年)。正式に「世子嬪」になりました。

1491年(成宗22年)。徽信公主が生まれました。

1493年(成宗24年)には貞顕王后が主催する親蚕礼に出席しました。

1494年(成宗25年)。元孫を生みましたが一ヶ月で夭折しました。

その年の12月、成宗が死去。

王妃時代

1494年。燕山君が朝鮮王に即位。

慎氏は「王妃」になりました。

1497年(燕山君3年)。王妃の主催で、昌徳宮·宣政殿において老人160人あまりを呼んで養老宴を行いました。老人を慰労する祝宴です。

同年12月。李が誕生しました。李は世子になります。

王妃の申氏は1498年と1500年、1503年にもそれぞれ養老宴を開き老人を慰労しました。

1502年(燕山君8年)。父·信承宣(シン·スンソン)が死去。申氏はこの時、臨月の身で出産が迫っていました。朝鮮では親の葬式では号泣するしきたりがあります(挙哀)。でも燕山君は身重の慎氏を気遣って父の葬式で慎氏が挙哀するのを止めさせました。

1504年(燕山君10年)。燕山君は廃妃·尹氏の賜死事件が原因でこの関わった大臣と王族を処刑しました。燕山君は長剣を持って継母の慈純王大妃(貞顕王后、中宗の生母)の寝殿におしかけ外に出るよう暴力をふるいました。このとき王妃·慎氏が止めようとしました。

1505年(燕山君11年)。斉仁元徳王妃の尊号を贈られました。

王妃慎氏は燕山君の私生活が乱れ荒んだ生活を送るようになると昼夜問わず気をもみながら諫言しました。燕山君は王妃の言うことは聞きません。でも王妃に対して怒ることはありませんでした。

また燕山君は慎氏の親族の地位を高めたり、罪を庇護したりしました。

暴君として知られる燕山君でしたが、慎氏やその家族に対しては危害は加えてなかったようです。

クーデターで燕山君が失脚後

1506年(燕山君12年)。朴元宗、成希顔、柳順汀たちが反乱を起こして燕山君は廃位になりました。(中宗反正)。

江華島に流刑になった2ヶ月後に死亡しました。

慎氏は王妃の位を廃され「居昌郡夫人」に降格。

二人の息子の廃世子・李と昌寧大君は賜死になりました。

夫の燕山君は仕方ないにしても息子まで失った慎氏の悲しみは大きかったでしょう。

また、燕山君の寵姫である張緑水は斬首になりました。

評判の悪かった燕山君と違い、慎氏は善良で慈しみ深い人柄のため廃妃になっても流刑にはならず、中宗の配慮で漢陽にとどまることを許されました。慎氏は父·慎承善の家を修理してそこで暮らしました。

1512年(中宗7年)。廃妃·慎氏は燕山君の墓を楊州·海村に移すよう提言し。中宗はこれを許可しました。

1521年(中宗16年)には慎氏の家が雨漏りするようになりました。すると中宗は処分されて空いていた安處謙の家を与えました。

1537年(中宗32年)。病死。享年62。

6月26日、楊州·道峰山·海村里に埋葬されました。

 

テレビドラマ

7日の王妃 2016 演:ソン・ジイン 王妃愼氏

 

 

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