韓国時代劇「奇皇后」に登場する王暠(ワン・ゴ)は実在する高麗の王族です。
叔父の26代国王・忠宣王からは大変愛されました。
忠宣王は自分の息子ではなく、王暠に継がせようと考えたほどです。
高麗の王座を何度も狙いました。しかしそのたびに失敗しています。
史実の王暠(ワン・ゴ)はどんな人物だったのか紹介します。
王暠(ワン・ゴ)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:969年11月
名前:王暠(ワン・ゴ)
称号:延安君、瀋陽王
父:江陽公王滋
妻:元の梁王松山の娘・訥倫公主
子供
高麗王朝、26代忠宣王~29代忠穆王の時代に生きました。
日本では室町時代の人になります。
おいたち
王暠は高麗の王族・江陽公王滋の息子。
王滋は25代国王・忠烈王の長男でしたが第2王妃の息子だったので王にはなれませんでした。
王暠は叔父の26代国王・忠宣王からは大変可愛がられました。宮廷で息子のように育てられました。
王暠が成長すると忠宣王は王暠に延安郡の称号を与えました。
元の皇族梁王の娘を妻にしました。元からは府馬(王女の夫)の待遇を受けました。
忠宣王は息子の忠粛王にかわって王暠に王位を継がせようとも考えました。
でも実現しませんでした。
1313年。忠宣王は忠粛王に高麗王を継がせました。
1316年。忠宣王が元からもらっていた瀋陽王の位を王暠に継がせました。忠粛王は瀋陽王の位も要求しましたが忠宣王は拒否しました。
1320年。モンゴル帝国(元)14代皇帝イリンジバル(寧宗)が即位しました。イリンジバルの支持を得て高麗の王位を要求しました。
高麗朝廷では權漢功、蔡洪哲、蔡河中、曺的などが王暠を王にしようと活動をしていました。
1321年。忠粛王は王の務めを怠っているとして元に呼ばれ王印を奪われ大都(北京)で拘束されました。その間、高麗では王暠が王の代わりを務めました。
1323年。イリンジバルが殺害され、15代皇帝イェスン・テムルが即位すると忠粛王を高麗に戻しました。
王暠は瀋陽にもどり、王暠派の勢いは弱まりました。
王位を狙って反乱を起こす
1328年。王暠は忠粛王の廃位を目指して反乱をおこしましたが失敗。息子の脫脫帖本兒が死亡します。妻の父・梁王松山も太平王燕帖木兒と戦い破れ死亡しました。王暠の勢力は衰えます。
1339年。忠粛王が死亡。元の有力者・伯顔氏の協力を得て高麗の王位を狙い忠恵王と争いました。
忠恵王はドラマ「奇皇后」でワン・ユのモデルになった人物です。
王暠は兵を率いて忠恵王の屋敷を襲いました。激しい戦いになりましたが、戦いに敗れました。
1344年。忠恵王が死亡し、息子の忠穆王が即位すると、ふたたび王位を奪う計画を建てました。
8歳の忠穆王にかわって高麗の政治をおこなっていたのは忠恵王の妃で元出身の徳寧公主でした。徳寧公主の働きで計画は失敗。
1345年。王暠は瀋陽で死亡しました。
ドラマの王暠(ワン・ゴ)
奇皇后 2013 MBC 演:イ・ジェヨン
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