徐増壽(じょ・ふくじゅ)は明朝建国の功労者・徐達の三男。
永楽帝の正室・徐皇后の弟です。
洪武帝や建文帝に仕え。燕王 朱棣が挙兵したときには朱棣に味方しました。
積極的に燕軍として戦ったわけではありませが。都の情報を朱棣に流していました。でも建文帝にバレてしまい処刑されてしまいます。
史実の徐増壽 はどんな人物だったのか紹介します。
徐増壽の史実
いつの時代の人?
生年:1368~1372年の間
没年:1402年
姓:徐(じょ)
名:増壽(ふくじゅ)
国:明
爵位:魏国公:
父:徐達
母:謝氏
姉:徐皇后(仁孝皇后)
兄:輝祖、添福、
弟:膺緒
妹:徐妙錦
妻:李氏
子供:徐欽
日本では室町時代になります。
徐允恭/輝祖の生涯
徐増壽の生年は不明。
兄弟の生年から判断すると1368~1372年の間のようです。
父は徐達。明の建国に最も貢献した将軍です。
母は謝氏。
徐増寿は子供のころから美形で、少年時代には父親の徐達とともに宮中で洪武帝 朱元璋に拝謁。洪武帝は感心して「増寿」という名を与えました。
成長後は勇敢で乗馬と射撃が優秀。勲衛の帯刀侍従に選ばれました。
徐増寿は慎重で誠実な人柄で、ほとんど過ちを犯しませんでした。
洪武23年(1390年)正月。燕王 朱棣とともに異民族の乃児不花を征討し、功績を立てました。
洪武24年(1391年)3月。徐増寿は勲衛として命を受け陝西に赴き兵を訓練して防衛にあたりました。
洪武26年(1393年)6月。洪武帝は徐増寿を左軍都督府都督僉事に任命。
7月。右軍都督府都督僉事になりました。
洪武29年(1396年)3月。右軍都督府左都督に昇任しました。
徐増寿は武門の家に生まれながらも家には書籍がいっぱいで、暇な時には学者たちを招いて古今の様々な故事を語り合うのが好きでした。
建文帝の時代
燕王を庇う
建文帝が即位した後。建文帝は 燕王 朱棣の反乱を疑い徐増寿に聞きました。
それに対して徐増寿は「燕王は先帝(朱標:実際には即位してませんが。建文帝即位後に興宗の廟号を与えられ皇帝扱いになってます)と兄弟です。既に富貴を極めています。どうして反乱を起こすことがありましょうか」と答えました。
さらに朱元璋の一周忌に燕王 朱棣は息子の朱高熾、朱高煦、朱高燧を南京に派遣しました。
朝廷では齊泰は3人を拘束するように、黄子澄は全員帰すように主張。
兄の徐輝祖は「私の三人の甥の中で荒々しく無法者なのは高煦だけです。高煦は陛下に忠誠を尽くさないばかりか、父をも裏切るでしょう。将来必ず災いになります」と言いました。
それに対して徐増寿は駙馬 王寧とともに彼らを庇いました。そのため建文帝は燕王の息子たちを全員帰しました。
靖難の役では燕王に情報を流す
その後間もなくして朱棣が靖難の役を起こしました。
姉の徐氏が朱棣の妻だったこともあり、徐増寿は朱棣に積極的に協力。南京にいて朝廷の動向を朱棣に伝え、何度も京中の配置を報告しました。
しかし見つかってしまい建文帝の命令で拘禁されてしまいます。
燕軍が長江を渡り南京に迫りました。建文帝は徐増寿を呼び出して直接問いただしました。徐増寿は答えられず、建文帝は怒って自ら剣を持って徐増寿を殺害しました。
その間も兄の輝祖は燕軍と戦っていました。
その後、建文帝は宮殿に火を放って自害したとされます(遺体は発見されていません)。
死後追封
永楽帝 朱棣が即位した後。永楽帝は徐増寿を武陽侯に追封。永楽帝が即位して最初に封贈された功臣となりました。諡号は「忠愍」とされました。
永楽2年(1404年)、朱棣は徐増寿に父業を引き継ぐ「欽承父業推誠守正武臣勋号、特進榮禄大夫、右柱国、定国公」を授け、子孫は世襲し、年俸2500石を定めました。
徐増寿は徐達の息子で、燕王 朱棣の妻・徐氏の弟です。遠征でも朱棣とともに出陣したり、朱棣とは縁が深いです。
そのせいか朱棣が挙兵したときには朱棣の味方をしました。燕軍のいち員として戦うことはありませんでしたが、都の情報を流していました。兄の徐輝祖が建文帝に味方したのとは対象的です。
どちらがいい悪いの問題ではなく、兄弟でも考え方が違うということでしょう。
テレビドラマ
永楽帝 2022年、中国 演:程碩男
徐増寿は徐妙雲の弟たちの扱いで登場。
朱棣の挙兵後は、建文帝から朱棣とのつながりを疑われて処刑されています。
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