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閔黯(ミン・アム)仁顕王后の廃妃をたくらんだ南人派の重臣

5 李氏朝鮮の重臣

閔黯(ミン・アム)は粛宗の時代の重臣。南人派の中心人物でした。

仁顕王后の廃妃を強く主張した人物です。張禧嬪や張希載(チャン・ヒジェ)とも親しくしていました。

仁顕王后の実家も驪興閔氏。閔黯も驪興閔氏です。祖先は同じですが、この頃になると考え方の立場から仁顕王后の実家とは対立して南人派になっていました。

史実の閔黯(ミン・アム)はどんな人物だったのか紹介します。

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閔黯(ミン・アム)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1636年
没年月日:1694年

名前:閔黯(ミン・アム)
号:叉湖
本貫:驪興閔氏

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に18代孝宗、19代粛宗の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

1672年。孝宗の時代に科挙に合格して文官になりました。

南人派の一員として活動しました。

1675年(粛宗1年)。顕宗の死後、荘烈王后が喪に服す期間を巡って西人と南人が対立。闘いに負けた西人の宋時烈が追放に成りました。

このとき、宋時烈の処分をどうするかで朝廷内の意見が分かれました。南人派が、死刑を求める強硬派の淸南と流刑だけでいいとする穏健派の濁南とにわかれてしまったのです。

閔黯(ミン・アム)は、濁南となって領議政の許積などと共に死刑に反対しました。

宋時烈は流刑になりました。西人派は力を失い、南人派が勝ちました。また南人派内部では濁南が勝ちました。

閔黯(ミン・アム)は、粛宗に信頼され都承旨になりました。

その後、 礼曹判書、大司憲、漢城府判尹などを歴任。

1680年。粛宗の母・明聖大妃とその従兄弟・金錫冑の訴えで西人派が排除されました。閔黯(ミン・アム)は島流しになりました。この事件を庚申換局といいます。

南人派は粛宗の側室張氏(禧嬪張氏)が王子・ユン(後の宣宗)を産みます。

1689年。喜んだ粛宗はユンを元子(後継者)にしようとしました。西人派が反対。怒った粛宗は西人派を追放します。己巳換局といいます。閔黯(ミン・アム)は朝廷に復帰。仁顕王后の廃妃を強く主張しました。また、禧嬪張氏の産んだ王子を元子にするのに反対した宋時烈の死刑も主張しました。

禧嬪張氏は王妃になり、世子になりました。

閔黯(ミン・アム)は王妃張氏の兄弟・張希載(チャン・ヒジェ)と結託。権力を強めます。閔黯(ミン・アム)は右議政になりました。

ところが増長する南人派に粛宗は反感を覚えます。仁顕王后の復活を求める西人派の動きも活発になりました。

1694年。粛宗は仁顕王后を王妃に戻し、張氏を禧嬪に降格させました。閔黯(ミン・アム)は死刑になりました。南人派は力を失います。この政変で甲戌換局といいます。

テレビドラマ

チャン・ヒビン 1995 SBS 演:パク・ゴンシク
チャン・ヒビン 2002年 KBS 演:ハン・インス
イニョン王妃の男 2012年 tvN 演:オム・ヒョソプ

同じ時代を扱ったトンイには出てきませんが、南人派の中心人物オ・テソクがミン・アムの立場に相当します。

 

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