朴泳孝(パク・ヨンヒョ)急進的な開化派の重臣

2018年3月5日

朴泳孝(パク・ヨンヒョ)は李氏朝鮮末期の政治家。

王女の夫として選ばれましたが、3ヶ月で王女が死亡。その後は政治家として活動しました。

開化派と呼ばれる近代化を目指す人々の中でも急進的だったことで知られます。

金玉均(キム・オッキュン)らと共にクーデターを行い、古い体質を一掃しようとしました。しかし挫折して日本に亡命します。

日韓併合後は政界や経済界の要職を勤め、朝鮮の近代化に貢献しました。

現在は大韓民国で国旗として使われる太極旗を李氏朝鮮時代に国旗として定めた人だともいわれています。

朴泳孝(パク・ヨンヒョ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1861年
没年月日:1939年9月21日

名前:朴泳孝(パク・ヨンヒョ)
称号:錦陵尉
父:朴元陽
母:李潤行
妻:永恵翁主(哲宗の娘)

子供

彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の25代哲宗~日本統治時代です。

日本では明治~昭和になります。

おいたち

幼いころの家は貧しく草履売をしていました。8歳のころ、父・朴元陽が興徳県監になってからは暮らし向きが良くなりました。

朴珪寿の弟子になって新しい文物や開化思想を学びました。金玉均(キム・オッキュン)らとともに開化党を作りました。

僧侶の李東仁が日本から持ち帰った望遠鏡と地球儀を見て衝撃を受けり、清から手に入れた外国の書物を読んで改革の必要性を感じていました。

1872年(高宗9年)。12歳のとき。哲宗の娘で、高宗のいとこの永恵翁主の府馬(婿)に選ばれました。錦陵尉の称号をもらいました。高宗の実兄・完興君よりも高い身分に鳴りました。

しかし3ヶ月後に永恵翁主が病で亡くなりました。朴泳孝は3年の喪に服しました。朝鮮の法律では、王族と縁組したものは再婚できません。気の毒に思った高宗は宮女数人を朴泳孝に贈りました。

1878年以降。恵民署や義禁府社を歴任。

1882年。 壬午事変(壬午軍乱)の事後処理のため、済物浦条約が結ばれました。

壬午事変(壬午軍乱)。朝鮮の兵士が起こした反乱。日本人軍事顧問、日本公使館員が殺害されたため日本と朝鮮は交渉。そのとき結ばれたのが済物浦条約。朝鮮は日本に謝罪し賠償金を支払うことになりました。

朴泳孝は謝罪と賠償金の減額交渉のための使節として日本に渡りました。このとき閔泳翊(ミン・ヨンイク)、金玉均(キム・オッキュン)を同行させています。

朝鮮国旗を決定

1882年9月。朴泳孝は日本に向かう船内でイギリス領事アストンやイギリス人船長に、出発前に作っていた朝鮮の国旗を見せました。それは八卦と太極をあしらったデザインでした。1882年5月にアメリカとの通商条約調印時に通訳の李應浚がデザインしたものだといわれます。

しかしアストンらが八卦がわかりづらいと主張。朴泳孝は八卦を四卦に変えたものを国旗にして使節の宿泊する施設に掲げました。その後、高宗の承認を得て朝鮮の国旗になりました。

このとき使用したデザインが朝鮮や大韓帝国の国旗として採用されました。太極を簡略化したものが現在の大韓民国でも国旗としてつかわれています。

親日家の朴泳孝によってほぼ今の国旗の形が出来たというのは現在の韓国には耐えられないらしく。李應浚が考案した時にはすでに四卦になっており、朴泳孝は左右を反転しただけという説もあります。

日本にの近代化を目にする

日本滞在中に使節としての役目をこなす他、日本の有力者や日本に派遣冴えていたイギリス・アメリカ・ドイツの使節とも会談。近代化された日本の軍隊や経済、産業を視察。感銘をうけます。

日本に留学生を派遣したり、福沢諭吉の協力を得て朝鮮国内で新聞を発行を計画。朝鮮近代化のための資金として日本政府と借款交渉をしました。

朝鮮に帰国後、改革を行おうとしましたが、旧守派の閔台鎬、金炳始の抵抗に会い失敗。

それまでは多少は開国しようとしていた朝鮮でしたが、朴泳孝が日本に行っている間に朝鮮は変わっていました。閔一族と旧守派が力を持ち、清に服従し古い体制を守る体制になっていたのです。

朴泳孝は役職を解かれて漢城判尹になりました。それでも朴泳孝は漢城府(ソウル)だけでも近代化させようと新しい部署を作って都市の近代化を進めようとしますが、金炳始によって廃止されました。新聞局を作って発行しようとします。

儒学者から弾劾を受けて左遷されてしまいます。

朴泳孝は辞任後も、福沢諭吉と連絡をとりあって新聞発行に協力したといいます。10月には朝鮮初の新聞「漢城旬報」が発行されました。執筆陣には金玉均ら開化派のメンバーがいました。

その後も朴泳孝が新しいことをやるたびに弾劾を受けついに辞職してしまいます。

甲申政変と改革の挫折

以前から金玉均、徐光範、徐載弼と連絡を取り合っていた朴泳孝は改革のため、旧主派を取り除くためのクーデターを計画しました。

郵政局落成式に合せて決起することにしました。日本公使の竹添進一郞とも連絡をとりあい、日本の協力を得ることにしました。

1884年(高宗21年)。朝鮮国内に駐屯していた清の軍隊が撤退したスキをついて決起しました。朴泳孝ら開化派は高宗を確保してクーデターに成功しました。早速、旧守派、閔氏派を排除して新政権を作ります。

ところが、閔氏側の右議政沈舜沢が清に助けを求めました。引き返してきた清軍に攻め込まれクーデターは失敗します。朴泳孝は金玉均ら生き残った開化派とともに日本郵船の千歳丸で日本へ亡命しました。

亡命中、山崎永泳春と名を変え明治学院に通いました。

1894年。日清戦争後。日本主導で朝鮮の改革が始まると朝鮮に戻り内務大臣になりました。

しかし三国干渉で朝鮮への日本の影響力が低下。日本が影響力を失ったあとも改革を続けようとしました。

しかしロシアが朝鮮に影響力を持つようになりました。閔氏一族や高宗もロシアよりでした。

明成王后暗殺計画の失敗

1895年。明成王后はロシアの支援を得て開化派の射殺計画をたてました。兪吉濬や大院君によって明成王后の計画は暴露されました。

開化派の人々は見の危険を感じる中、朴泳孝は明成王后暗殺計画をたて日本軍に協力を求めます。ところが味方だと思って兪吉濬計画をうちあけると、兪吉濬は高宗に計画を漏らしてしまいました。計画が漏れたことを知った朴泳孝は日本に亡命しました。

福沢諭吉や井上薫などの助けをかりて生活しました。朝鮮からは暗殺者が派遣されることもありましたが、井上薫は朴泳孝に警護をつけました。

1907年。大韓帝国となった朝鮮に戻り宮内府大臣になりました。李完用と対立、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島に流刑になりました。

1908年。釈放されましたが、漢城へ入ることは許されませんでした。

1910年。日韓併合後は侯爵(朝鮮貴族)となって、朝鮮銀行理事、朝鮮経済界会長、東亜日報社初代社長などを歴任。日本統治時代の朝鮮で要職を勤め、朝鮮の近代化に貢献しました。

1939年。死亡。享年78歳。

テレビドラマの朴泳孝

KBS 1996年 華麗なる人 演:イ・ミヌ 
KBS 2001年 明成皇后 演:チャ・チョルスン
KBS 2014年 朝鮮ガンマン 演:ジ・スンヒョン

 


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