中国ドラマ「鏢門」には「捻軍(ねんぐん)」という言葉が何度か出てきます。
太谷鏢局の創設者・戴海臣(たい・かいしん)
暗がり峠の匪賊(盗賊)の頭・路宗山(ろ・そうざん)
革命軍(反清勢力)の夏啓尊(か・けいそん)の三人は
捻軍三傑とよばれます。元捻軍の司令官でした。
匪賊(盗賊)の山猫は捻軍元帥の息子です。
捻軍はかつて清に反乱をおこした武装勢力の名前です。
捻軍とはいったいどのような勢力だったのか紹介します。
捻軍とは
捻軍の由来
捻(ねn)とはもともと「ひねる」「ねじれる」の意味。
華北の言葉「捻子」に由来します。
紙を捻って火をつけるための芯にしたものを「焼油捻紙」といいます。
お祭りや行事のときに病気や災いを取り除くために「焼油捻紙」に火をつけて儀式をします。
「焼油捻紙」を売り歩く人々のことを「捻子」といいます。
初期のころは村人から買ってもらってました。
ところがやがて、村人たちを脅迫して無理やり買わせるようになりました。「押し売り」です。「捻子」は盗賊のようになっていきます。
でも生活が苦しくなると、田畑を棄てて捻子になる人が増えました。清朝の末期には捻子は安徽省・河南省に多くいたといいます。
秘密結社化する捻軍
やがて焼油捻紙を売る人だけでなく様々な職種の人々が武装集団を作るようになります。人々の集まりを捻子と呼ぶようになったのです。日本の「一揆」と同じです。
咸豊2年(1852年)の大きな飢饉がありました。
各地で捻子が結成され、加入者も増えました。
このころ塩密売業者の張楽行(ちょう らくこう)が捻子を結成。輸送業者は各地を行き来しているので各地に拠点を持ち、情報を集めています。人脈も豊富です。用心棒(鏢局)とのつながりもあります。塩の密売ですから政府に見つかるわけにはいきません。塩の密売業者は秘密結社になっていきます。
やがて各地の捻子を束ねる地域の有力者が集まり徒党をくむようになりました。これが捻軍の始まりといわれます。張楽行は地域の捻軍のリーダーになりました。
捻軍は「金持ちを殺して貧しい人々を助ける」という目的で動いていました。
なかなか被災民の救済やなかなか復興を進めようとしない清朝を批判するようになります。
太平天国の乱に便乗
咸豊3年(1853年)。太平天国の乱が起こりました。捻軍も便乗して反乱を起こしました。最初は太平天国の人々は捻軍をまともに相手にしませんでした。
このころの捻軍は人々から盗賊の集団と思われていたからです。
咸豊5年(1855年)。黄河の堤防が決壊。山東省・安徽省北部・江蘇省北部の多くの人々が流人になりました。堤防の結界といっても日本の河川の結界とは規模が違います。黄河や長江などの大陸の大河が決壊すると、日本の都道府県レベルの地域が全て水没するほどの被害が出ます。田畑を失った農民たちの多くが捻軍に加入しました。
太平天国の乱への対応や欧米への賠償もあって清朝は被災民の救済や復興がなかなか進みません。支援を受けられない人々が反乱軍に加入者するという悪循環になっていました。
このころ各地の捻軍が集まり大きな軍団になりました。張楽行が捻軍リーダーになりました。張楽行は自らを「大漢盟主」とよび、軍団を、黄・白・藍・黒・紅の「五旗軍制」に再編成しました。5つの色はもちろん「五行思想」がもとになっています。白蓮教を参考にしたのです。
捻軍は最盛期には10万の歩兵と1万の騎兵を集め、淮河の南北で大きな勢力をもつ大きな軍団になりました。
1856年には太平天国とも協力。太平天国の幹部・陳玉成から指導をうけるようになり
捻軍は各地で戦いますが、太平天国が敗れると捻軍も
1863年。張楽行は清軍に捕らえられ処刑されました。甥の張宗禹(ちょう そうう)があとを引き継いで捻軍を率いました。
1864年には洪秀全が死亡。南京が陥落。太平天国が壊滅しました。
その後、太平天国の残党は捻軍に合流。太平天国の指導者・頼文光(らい・ぶんこう)と、捻軍の張宗禹が共同指導者になりました。
その後も、各地で清朝に抵抗を続けました。
1866年。捻軍を2つに分け東捻軍を頼文光、西捻軍を張宗禹が率いました。
1868年。山東省で戦っていた頼文光の部隊が清軍と戦って全滅。
張宗禹が率いる西捻軍も天津を目指して進軍中に大雨で騎兵が動けずにいるところを清軍に襲撃され全滅。張宗禹は行方不明(自殺したともいわれます)になりました。
こうして捻軍の反乱は終わりました。
ドラマ「鏢門」では戴海臣(たい・かいしん)、路宗山(ろ・そうざん)、夏啓尊(か・けいそん)が捻軍三傑と言われてます。
史実の捻軍と戴海臣や山猫との関係は?
歴史上の捻軍の武将に戴海臣たちの名前はありません。ドラマオリジナルの人物です。でも捻軍の兵士たちは10万人以上いました。その中に戴海臣たちのような武将がいても不思議ではありません。
山猫は捻軍元帥の息子の設定です。
捻軍に元帥という称号はありませんが、元帥が司令官のことなら張宗禹(ちょう そうう)か頼文光(らい・ぶんこう)のことになるでしょうか?
でもふたりとも1868年に死亡しています。ドラマ「鏢門」が1911年から始まります。
1868年に捻軍のリーダーに幼子がいたとしても。山猫はどんなに若くても43歳になってるはず。山猫は正直言って年齢不詳なのですが。40代半ばには見えませんね。
山猫の母は西洋人という設定。捻軍元帥の子は殺されましたが。山猫は元帥の庶子で西洋人の子だったので見逃されたという設定。
太平天国のもとになった拝上帝会がキリスト教を元にしていることと関係あるのでしょうか?
拝上帝会は教祖が「神の子」を名乗ります。イエス以外の者が神の子を名乗るなんてキリスト教ではありえません。バチカンに力がある時代なら間違いなく「アンチキリスト(偽救世主)=サタンの分身」認定ですよ。
拝上帝会は古代から中国にある拝天思想にキリスト教の理屈を利用した新興宗教なのです。ヨーロッパ諸国からは怪しいと思われて嫌われました。
正直、清朝末期の捻軍元帥の妾に西洋の女性という設定は無理があります。
もしかすると、張宗禹や頼文光が戦死したあとも捻軍の活動は続いていて新しいリーダー(捻軍元帥)がいたということでしょうか?その捻軍元帥と西洋人女性との間には何らかのロマンスがあった。
その新いいリーダーのもとに戴海臣(たい・かいしん)、路宗山(ろ・そうざん)、夏啓尊(か・けいそん)捻軍三傑がいた。
ということでしょうか?
そうでも考えないなとつじつまがあいません。
でも。
清朝末期には様々な反乱があって、様々な武装勢力がいました。
「捻軍」というキーワードはもそういう武装勢力を意味する言葉。
くらいに思えばいいのかもしれません。
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