安嬪 李氏は清朝の第4代皇帝・康煕帝の側室です。
祖父は明の将軍・李永芳ですが。国境付近を守っていた李永芳は、明で一番早く清に降伏しました。ヌルハチは降伏した明の武将たちを手厚い待遇で迎えたため、李永芳の一族は漢軍八旗に取り立てられました。
安嬪 李氏は漢人ながら旗人(満州貴族)の家柄に生まれ育ちました。
康熙帝の側室になった安嬪 李氏でしたが、途中で記録に出てこなくなり行方不明です。
史実の 安嬪 李氏 はどんな人物だったのか紹介します。
安嬪 李氏 の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:不明
姓:李氏
称号:安嬪
地位:康熙帝の側室
父:剛阿泰(ガンアタイ)
母:不明
夫:康煕帝
子供:なし
彼女が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
安嬪 李氏の家系
安嬪 李氏の家は、漢軍正藍旗の旗人です。
安嬪の祖父・李永芳は 撫順 (現在の中国・遼寧省撫順市)に住んでいた明の国境を守る将軍。清朝に降伏した最初の明の将軍です。
ヌルハチは李永芳に孫娘(アバタイの娘、安親王岳楽の妹)を嫁がせました。
李永芳はその後、娘の一人を義父アバタイの孫・輔国公翁古公に嫁がせました。
父・剛阿泰は李永芳の三男でした。剛阿泰は満洲名を名乗って清の軍人になりました。
李家は満洲王家とも親戚関係でしたが、安嬪 李氏本人には満洲王家の血は流れていません。
順治帝の時代。父の剛阿泰は宣府総兵をしていました。
当時、山西地方は治安が悪く盗賊たちがよく出没していました。
剛阿泰は盗賊たちを取り締まりました。
順治11年(1654)。彼の部下たちが盗賊から没収した金品を横領していることが分かり、剛阿泰は弾劾を起こされて免職になってしまいました。その後、剛阿泰は領地に戻り死亡しました。
父・剛阿泰は失業してしまいまいましたが。叔父たちは清朝の軍人を務めていました。漢軍正藍旗の李氏の地位にはとくに影響はなかったようです。
康熙帝の側室になった 安嬪
安嬪がいつ生まれたのかはわかりません。
康熙10年(1671年)。李氏は八旗選秀で選ばれ入宮。地位は庶妃。
康熙帝16年(1677年)8月。鈕祜祿氏が二人目の皇后になりました。他にも、安嬪 李氏、敬嬪 王佳氏、 端嬪 董氏、栄嬪 馬佳氏、恵嬪 那拉氏、宜嬪 郭絡羅氏、僖嬪 赫舍里氏が任命されました。
このとき任命された嬪は7人。後に出世する栄嬪 や 恵嬪も一緒に任命されています。でも、安嬪は彼女たちを抑えて7人いる嬪の中でも一番格上でした。この時、子供がいたのは端嬪 董氏 、栄嬪 馬佳氏、恵嬪 那拉氏 です。彼女たちを抑えて安嬪が嬪のトップにランクされているのは家柄のおかげでしょう。
漢軍八旗の旗人出身だったのが大きな理由です。
康熙36年(1697年)。この頃になると嬪は4人。僖嬪 赫舍里氏 、 端嬪 董氏、
安嬪 李氏、敬嬪 王佳氏でした。
馬佳氏 栄妃は死去。那拉氏は恵妃になっています。
1707年になると。嬪は 端嬪 董氏、敬嬪 王佳氏 と良嬪衛氏 の3人。
安嬪 李氏と敬嬪 王佳氏の行方がわかりません。
安嬪 李氏の肖像画が端嬪 董氏たちのものと一緒に残されています。
安嬪 李氏がいつ亡くなったのかは記録がないのでわかりません。
妃嬪たちを葬った陵墓には「安」のつく妃嬪の墓はありません。
道光帝や宣統帝の時代に作られた妃嬪のリストを見ると康煕帝には安嬪がいたと書かれています。
安嬪の存在そのものが消されたり、降格になったわけではなさそうです。
ただ亡くなった時期の記録が書けているだけでしょうか。
康煕帝時代の満洲語の記録によると。康熙帝の側室には西六宮に住んでいた博爾濟吉特氏という格格がいました。でも妃や嬪にはならず、康煕帝によってモンゴルの母のもとに送り返されたという記録があります。
安嬪 李氏と敬嬪 王佳氏も何か事情があって実家に送り返されたのかも知れません。
雍正4年まで生きていたという伝説はありますが定かではありません。
テレビドラマの 安嬪
皇帝の恋 2016年、中国 演:王偉
端嬪とは仲がよくありません。
龍珠伝記 2017年、中国、演:楊紫 役名:李易歓
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