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端嬪 董氏 は 康煕帝が10代から60代のころまでいた側室

清王妃側室 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

端嬪 董氏は清朝の第4代皇帝・康煕帝の側室です。

董氏の一族は代々満洲貴族に仕える正黄旗の包衣(ボーイ)出身でした。董氏一族は明や李自成との戦いで手柄を立てて出世しました。康熙帝が即位したときにはそれなりに高い地位にいました。

康熙帝が十代のころからの側室。康熙帝の後宮の中では年長者になります。子供に恵まれなかったためか、それとも康煕帝からの寵愛が他の妃ほどではなかったためなのかわかりませんが。董氏は妃にはなっていません。

端嬪が亡くなったのは康熙59年(1720年)ですから康煕帝の晩年まで後宮にいたことになります。後宮でもかなりのベテラン側室だったのでしょう。

それでも何人もいる嬪の中では最高位でした。

旗人(満洲貴族)でなかった 董氏が「嬪」になったのも一族の勢いがあったから。

史実の 端嬪 董氏 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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端嬪  董氏 の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1702年

姓:董氏
称号:端嬪(たんびん)
地位:康熙帝の側室 
父:董得啓 または 董達齊
母:不明
夫:康煕帝

子供:女子1人

彼女が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

董氏の家系

董氏の祖先・董文選は内務府 正黄旗の包衣人。撫順 (現在の中国遼寧省撫順市)に暮らしていました。

正黄旗は皇帝直属の軍団と領民です。日本でいえば幕府の直轄領みたいなものです。包衣(ボーイ)は旗人(満洲貴族)に代々仕える使用人です。

包衣人は旗人よりは地位は低いですが。皇帝一族に仕えるの使用人なので普通の漢人よりは地位は上です。役人や軍人として出世する人もいました。

董家は康煕帝・雍正帝・乾隆帝の時代に活躍した一族です。

董文選のひ孫で端嬪の父・董得啓は員外郎という役職についていました。

山海関の戦いでは董得啓の兄弟の董得貴が正黄旗の譚泰と一緒に戦い、李自成の軍を破るのに貢献しました。その功績が認められ董一族の地位が上がりました。

董一族は舒穆禄氏や那拉氏など有力な満洲旗人との結婚を繰り返し地位を高めました。

董氏が康熙帝の側室になって「端嬪」の称号を与えられたのも、こうした一族の力のおかげです。

 

端嬪の生涯

父は朝廷の役人の董得啓。董達齊ともいいます。

董氏がいつ宮中に入ったのかはわかりません。

康熙10年3月9日(1671年)。庶妃董氏が康熙帝の次女を生みました。

このころはまだ側室たちの称号が決まってません。側室たちは庶妃という大雑把な呼ばれ方をしていました。

康熙10年なら康煕帝はまだ17歳。即位して側室がもてるような年齢になって早くに側室になったのでしょう。

康熙12年3月(1673年)。董氏の娘が死亡しました。

康熙16年5月24日(1677年)。康熙帝が命令を出しました。「朕は、聖祖母太皇太后から古来の王政を参考にして妃嬪を決めよ。と指示された」と言って。禮部(祭祀や儀式を行う部署)に吉日を選ばせ、誰にどの称号を与えるかも決めさせました。

8月22日。側室たちの任命式を行いました。

このとき董氏は「端嬪」に任命されました。7人いる嬪の中でも3番めの地位を与えられました。同じ「嬪」でもランクがあるのです。

康熙46年(1707年)。このころの康熙帝の側室は 貴妃、恵妃、宜妃、徳妃、栄妃。端嬪、和嬪、良嬪など。端嬪は3人いた嬪の中では一番地位が上です。

このころ良嬪 衛氏も「嬪」になっていました。でも同じ「嬪」でも端嬪の方が格上です。

董嬪はすでに35年以上宮中で暮らしていたので嬪の中では年長者になっていました。

康熙59年9月9日(1720年)。端嬪が死去。景陵妃園に葬られました。

生年はわかりませんが康熙10年には康熙帝の次女を出産していました。端嬪が亡くなったときには60歳後半だったのは間違いないでしょう。

テレビドラマ

 

皇帝の恋 2016年、中国
 演:曹艶
 皇太后の姪。琳琅を陥れようとします。

 

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