錦城大君(クムソンテグン)は世祖に逆らって処刑された王族です。
世祖(首陽大君)の弟でありながら、甥の端宗を守って世祖に対抗しようとしました。
しかし世祖によって処刑されます。
史実の錦城大君はどんな人物だったのか紹介します。
錦城大君(クムソンテグン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1426年
没年月日:1457年
名前:李瑜(イ・ユ)
称号:錦城大君()
父:世宗
母:昭憲王后
妻:崔氏(崔士康の娘)
子供
花原君
咸原君
春城君
錦城大君は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の4代国王世宗の7男。7代国王世祖(首陽大君)の弟になります。
日本では室町時代の人になります。
おいたち
1426年(世宗8年)。世宗の6男として産まれました。
1433年。7歳のとき、錦城大君の称号を与えられました。
1437年。11歳で崔士康の娘と結婚しました。
宜安君(李芳碩:イ・バンソク)の養子になりました。宜安君は李成桂(イ・ソンゲ)の8男です。李芳遠(イ・バンウォン)が起こした第一次王子の乱で殺害されました。宜安君は既に亡くなっていましたが、家系を継いで宜安君の供養を任されました。
世宗に可愛がられた錦城大君
祖父の世宗は錦城大君をとても可愛がっていました。
錦城大君が疱瘡にかかり危篤状態になったことがありました。心配した世宗は医官の崔濕(チェ・スプ)を派遣しました。治療の効果があったのでしょうか錦城大君は無事回復しました。世宗は大変喜んで、治療を行った医官と関係者に褒美を与えました。
1452年(文宗2年)。兄・文宗が死亡して端宗が即位しました。
錦城大君は首陽大君と端宗に呼び出されます。錦城大君はその場で首陽大君とともに端宗への忠誠を誓いました。
1453年(端宗1年)。首陽大君が安平大君に謀反の疑いをかけて粛清し、金宗瑞(キム・ジョンソ)たち重臣を殺害しました。この事件を癸酉靖難といいます。
首陽大君は自ら領議政になって政治を行いまいました。
それに対して錦城大君は、王以外の者が政治を動かして王をないがしろにしているという点では首陽大君もキム・ジョンソとかわらない。と思うようになります。
錦城大君は首陽大君から幼い王を守ろうと決意しました。
しかし端宗を守ろうとする錦城大君の行いは首陽大君の反感を買います。
1455年2月(端宗2年)。錦城大君は親しい者たちを集めて自宅で弓矢の試合を行いました。これを首陽大君は謀反だと口実をつけて錦城大君を捕らえまました。しかしこのときは無罪になりました。
その後、端宗は首陽大君の圧力に負けて譲位してしまいます。
1455年(世祖1年)。首陽大君は即位して世祖になりました。
錦城大君は再び謀反の罪で捕らえられ順興府(現在の慶尚道栄州)に流罪になりました。財産はすべて没収されました。
錦城大君とともに端宗を補佐しようとしていた恵嬪楊氏、漢南君、永豊君も弾劾を受け。漢南君、永豊君は順興府に、恵嬪楊氏は清州に流罪になりました。
端宗復位計画の失敗
1457年(世祖3年)。錦城大君は順興府使の李甫欽(イ・ボフム)らとともに端宗を再び王にしようと檄文を作り兵を集めようとしました。
この計画は世祖にばれてしまい錦城大君たちは捕らえられてしまいます。イ・ボフムたち関係者は斬首になり、錦城大君は安東に流罪になりました。端宗は王族の身分を奪われ庶民に格下げになりました。
その後も重臣たちは、錦城大君と魯山君の処分を求めて訴えを起こします。
世祖は錦城大君と端宗は死罪になりました。錦城大君は毒薬を飲み死亡します。
イ・ボフムが治めていた順興府の住民も反逆者とされ、住民が虐殺されます。順興府は廃止になり他の郡や県に吸収されました。
世祖と側近たちは端宗の復位に関わっていたものには厳しい処分を行い大勢の人々が犠牲になりました。その中には関わっていないものも大勢処刑されています。
錦城大君は重臣が力を持ちすぎるのは良くないと考えてはいた点では他の兄弟たちと似ています。しかし兄のように自分自身が政治を行おうという野心はなく、祖父・世宗や兄・文宗の教えに忠実であろうとしました。
そんな錦城大君にとっては兄・首陽大君も王位を脅かす存在に思えたのでしょう。
しかしそうした彼の想いは裏目に出てしまい、自分や端宗も死に追いやってしまいます。
テレビドラマ
ハンミョンフェ KBS 1994年 演:ゴ・インベ
王と妃 KBS 1998年 演:ウォン・ソクヨン
王女の男 KBS 2011年 演:ホン・イルグォン
インス大妃 JTBC 2011年 演:チョン・ヒョン
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