雲が描いた月明かりに登場するイ・ヨンは実在の人物。孝明世子(ヒョンミョンセジャ)といいます。
孝明世子は聡明な人物で王になれば名君になっただろうと言われる人です。
「雲が描いた月明かり」はすべて作り話でドラマにあるようなエピソードはなかったのですが、聡明な王子としての一面は孝明世子らしいといえます。
史実の孝明世子はどんな人物だったのか紹介します。
イ・ヨン(孝明世子:ヒョンミョンセジャ)の史実
どんな人?
名前:李旲(イ・ヨン)
称号:孝明世子(ヒョンミョンセジャ)、翼宗(追尊)
生年月日:1809年9月18日
没年月日:1830年6月25日
家族
彼は23代朝鮮国王純祖の息子。22代国王正祖(イ・サン)の孫になります。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
1809年(純祖9年)。純祖の長男として生まれました。
1812年。わずか3歳で世子になりました。
1817年。8歳には王族や重臣の子弟が通う学校・成均館に入学しました。
1819年。10歳の時、趙萬永(チョ・マニョン)の娘と結婚しました。純祖が名門の一族・豊壌趙氏から息子の妻を迎えたのは、安東金氏に対抗できる勢力になることを期待してのことだったといわれます。
純祖時代の勢道政治
当時は安東金一族が朝廷の要職を独占していました。安東金氏は純祖の妻の実家です。安東金氏にあらずば人にあらずという状態だったのです。これは勢道政治といいます。
重臣たちが派閥を作って争う時代とは違い、特定の一族だけが権力を持つ世の中でした。そのため敵対する勢力のいない安東金氏のやりたい放題でした。安東金氏に取り入ろうとする人々は安東金氏に賄賂を送り、朝鮮の朝廷は腐敗していました。
安東金氏派に実権を握られている純祖は嫌気がさしていました。
父・純祖の代わりに政治を行う
1827年。18歳のとき。代理政聴を初めます。父・純祖の代わりに政治を行いました。純祖の病状が悪化したというのが理由でしたが、若い次期から世子に政治を学ばせようという純祖の考えでした。また、孝明世子の妻の実家・豊壌趙氏の発言力を高め、安東金氏の力を抑えようとしたのです。
純祖は人事や刑罰などの重要な政務だけを担当し、一般の政務は孝明世子に任せました。
孝明世子は義父・趙萬永、義父の弟・趙寅永を採用。老論派やイ・インジャの乱のあと採用されていなかった少論も採用しました。安東金氏の時代には冷遇されていた人々を採用しました。
孝明世子が清浄を初めて2年目の1829年には領議政と左議政から安東金氏派が排除されました。
孝明世子は安東金氏を排除したわけではありません。安東金氏を排除して豊壌趙氏がとってかわってしまっては、同じことの繰り返しになるからです。安東金氏と豊壌趙氏が牽制しあいながらバランスを保っている状態でした。
孝明世子 イヨンの最後
1830年。孝明世子は吐血、寝込むようになりました。そしてわずか21歳で死亡します。
孝明世子はもともと病弱だったといわれるので、心労も重なり体を壊したようです。あまりにも早い死は、安東金氏による毒殺説も囁かれます。
孝明世子の死後、安東金氏の勢力は再び力を付けました。豊壌趙氏の勢力は次々と弾劾され追放されます。
純祖と孝明世子の目指した政治は挫折。朝鮮はますます一部の者が富と権力を独占する世の中になるのでした。
テレビドラマ
雲が描いた月明かり 2016 演:パク・ボゴム
史実の孝明世子と違い生母はキム氏ではなく、中殿パク氏の設定。
代理聴政を行った時代にはすでに嬪宮チョ氏と結婚していましたが。ドラマではまだ結婚していません。
まとめ:朝鮮最後の希望
孝明世子 李旲(イ・ヨク)は朝鮮23代王 純祖の長男として生まれわずか3歳で世子に立てられました。
父王の命を受け18歳から政治の実務を担い、安東金氏の勢道政治に歯止めをかけようとしました。
彼はまた音楽や舞踊を愛した文武両道の才人としても知られています。
でも21歳という若さで亡くなり、彼の改革は途中で途絶えてしまいます。こうして勢道政治をとめることはできないまま朝鮮は衰退に向かうのでした。
孝明世子は朝鮮の衰退を止める最後の希望だったのかもしれません。
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