永昌大君(ヨンチャンテグン)は宣祖の息子。
宣祖の晩年になって初めて正室から産まれた男子です。
そのため、産まれたときから後継者争いの元になってしまいました。
重臣たちは永昌大君を支持する者と、光海君を支持する者にわかれてあらそいます。
その権力争いが永昌大君の命も奪ってしまいました。
史実の永昌大君はどんな人物を歩んだのか紹介します。
永昌大君(ヨンチャンテグン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1612年2月5日
没年月日:1645年5月21日
名前:李㼁
称号:永昌大君(ヨンチャンテグン)
父:宣祖
母:仁穆王后
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に14代宣祖の息子です。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
1606年4月12日。先祖と仁穆王后の間に産まれました。
既に宣祖には多くの息子がいましたが全て側室の子供でした。永昌大君は正室の産んだ最初の嫡子でした。
宣祖は嫡子の誕生に大変喜びました。
既に光海君が王世子に決まっていました。しかし明から承認されていないので正式には王世子ではありません。側室の次男という立場が明に嫌われていたのです。
さらに光海君の母・恭嬪金氏はかつては宣祖に寵愛を受けた側室でしたが、既に病で亡くなっています。しかも恭嬪金氏の晩年は宣祖との仲は険悪になったので、息子に対する愛情もあまりなかったようです。
しかも文禄・慶長の役(壬辰戦争)では光海君の働きに民衆や重臣の支持が集まり、宣祖はますます疎ましく思うにようになってました。
宣祖自身も傍流の家系でした。宣祖の父は側室の子。つまり宣祖は父から王位を受け継いだのではなく、叔父(明宗)から王位を継いだのです。ですから血筋に対する劣等感があったといわれます。
それでも側室の子の中では最も功績が大きく年長者(素行の悪い臨海君は除く)だった光海君を世子にふさわしいという重臣もいました。
宣祖も仕方なく光海君を世子のままにせざるを得ませんでした。
でも正室に男子が生まれれば話は別です。
領議政の柳永慶(ユ・ヨウンギョン)ら重臣と永昌大君を世子にできないか相談しました。
北人派は光海君を世子にしようとする大北派と、永昌大君を世子にしようとする小北派に分裂して争いが始まりました。
大北派と小北派の争いは小北派が勝ちました。このまま成長すれば永昌大君が王になるかに思えました。
宣祖は韓浚謙ら重臣に永昌大君を託しました。
宣祖の没後に争いの犠牲に
ところが宣祖が死んでしまいます。このとき永昌大君はまだ2歳。仁穆王后が摂政をするにしても幼すぎます。
結局、永昌大君を王にするのは現実的ではないとして光海君が王になりました。
このとき政治の実権を握っていたのは大北派。大北派は光海君とともに壬辰戦争を戦い抜き人々の指示を得て朝廷内でも大きな力を持っていました。宣祖が亡くなって大北派を抑える者はいなくなりました。
さらに大北派の李爾瞻らが柳永慶を弾劾。小北派を死罪や流罪にしました。
1611年(光海君3年)。このとき永昌大君の称号が与えられました。しかし永昌大君を守る者はもういません。
1613年。仁穆大妃の父・金悌男(キム・ジェナム)、つまり永昌大君の祖父が謀反の罪で捕らえられました。大北派に濡れ衣を着せられ処刑されました。
永昌大君は身分を奪われて庶民になり江華島に島流しになりました。
大北派は永昌大君の死刑を訴えましたが、光海君は拒否しました。
1614年。光海君日記(光海君時代の記録)によると、李爾瞻の命令で永昌大君を殺害しようとします。永昌大君の食べ物に砂を混ぜ食べられないようにしたり、監禁している部屋のオンドルの火を強くして寝られないようにしました。
永昌大君はやがて衰弱して死んでしまいます。9歳でした。
光海君は処刑は拒否しているのであからさまな殺害はできません。徐々に弱らせて死亡させる方法をとったのでしょう。
光海君のもとには病死したという報告が届いたということです。
永昌大君の死因については、仁祖実録では光海君の密命で永昌大君を毒殺したことになっています。光海君を暴君にするための捏造の可能性もあります。
テレビドラマ
宮廷女官金尚宮 KBS 1995年
王の女 SBS 2003年
王の顔 KBS 2014年
華政 MBC 2015年
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