朱見済は明朝の皇太子。
第7代皇帝 景泰帝 朱祁鈺の息子です。
父の景泰帝は皇帝になる予定ではありませんでしたが、正統帝がオイラトの捕虜になったので急遽皇帝に即位しました。
父が皇帝になったものの、しばらくは皇太子は正統帝の息子 朱見深でした。
そこで景泰帝は朱見深を廃して自分の息子の朱見済を皇太子にします。
朱見深は4歳で皇太子になりました。ところがわずが5歳で病気でこの世を去ってしまいます。
景泰帝は朱見済に「懐献太子」の諡を与えました。
史実の朱見済はどんな人物だったのか紹介します。
朱見済の史実
いつの時代の人?
生年月日:1448年8月1日
没年月日:1453年3月21日
享年:5
名前:朱見済(しゅ・けんせい)
称号:懐献太子(かいけんたいし、景泰帝)
懐献世子(英宗が変更)
父:景泰帝・朱祁鈺
母:杭皇后
彼は明朝の7代皇帝・景泰帝の息子です。
日本では室町時代になります。
おいたち
正統13年7月2日(1448年8月1日)に誕生。
父は郕王・朱祁鈺(しゅ・きぎょく)
母は側室の杭氏。
正統14年(1449年)。明とオイラトとの間で戦争が起こりました。
伯父の正統帝・朱祁鎮は自ら遠征。オイラト軍の捕虜になってしまいます(土木の変)。
正統14年9月6日(1449年)。父の朱祁鈺が皇帝(景泰帝)になりました。
朱祁鎮がオイラトから帰ってきましたが。幽閉しました。
景泰帝・朱祁鈺は朱祁鎮の息子・朱見深を皇太子にすると約束。しばらくは約束通り朱見深を皇太子にしていました。
でも景泰帝・朱祁鈺は実の息子・朱見済を息子にしたくてたまりません。そこで景泰帝は臣下に賄賂を渡して息子を皇太子にするための裏工作をしました。
そのため景泰帝は後に「臣下に賄賂を渡す皇帝」とバカにされます。
ところが景泰帝の正室・ 孝淵景皇后 汪氏が反対しました。孝淵景皇后には実の子がいなかったので朱見深を後継者にしようと考えていました。
朱見済が皇太子になってしまうと生母の杭氏の地位が上がってしまいます。そこで孝淵景皇后は反対したのです。
すると景泰帝は 孝淵景皇后 汪氏を廃して杭氏を皇后(粛孝皇后)にしました。
こうして朱見済を皇太子にするために準備がととのうと。
景泰3年(1452年)。景泰帝・朱祁鈺は朱見済を皇太子にしました。
ところが1年後の景泰4年2月(1453年3月21日)。皇太子・朱見済は病死してしまいます。
景泰帝は朱見済に「懐献太子」の諡(おくりな)を与えました。
景泰7年2月21日(1456年3月26日)。生母・粛孝皇后 杭氏が死去。
景泰8年(1457年)。父の景泰帝も病になって寝込みます。すると石亨や曹吉祥たちが反乱を起こして朱祁鎮を救出。朱祁鎮が再び皇帝(天順帝)に即位しました。
病床の景泰帝は死亡。
その後、
天順帝・朱祁鎮によって「懐献太子」の諡が剥奪。「懐献世子」に格下げになりました。
「世子」は「太子」よりもランクが下。
太子は皇帝の後継者ですが。
世子は王の後継者という意味です。
つまり朱見済は皇太子とは認められなくなりました。
テレビドラマ
大明皇妃 2016 演:林靖哲
大明皇妃には粛孝皇后 杭氏が登場しないのでドラマの中では景泰帝と孝淵景皇后の息子。景泰帝の皇太子をめぐって皇后が廃されるトラブルありません。史実通り景泰4年に死亡。「懐献太子」の諡が与えられます。
女医明妃伝
には生母の粛孝皇后 杭氏をモデルにした允賢が登場しますが。朱見済は登場しません。
景泰帝の後継者をめぐるいざこざを再現したドラマは意外とありません。
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