PR

朱瞻圻「尚食」游一帆/朱瞻礼のモデル は父を恨んでいた?

明 2.1 明の皇帝・皇子

朱瞻圻(しゅ・せんき)は15世紀の明朝の皇族。

永楽帝の次男・朱高煦 漢王の息子です。

朱瞻圻は父の朱高煦のことを恨んでいたようですが。北京にいて父に朝廷の情報を漏らし謀反を促すような手紙を送ったりしています。

その行動がバレて庶人に落とされるのですが。洪熙帝は彼を殺そうとはしませんでした。

でも父 ・朱高煦が宣徳帝に謀反を起こしたときに連座で処刑されました。

中国ドラマ「尚食」游一帆/朱瞻礼のモデルです。

史実のは朱瞻圻どんな人物だったのか紹介します。

 

PR

朱瞻圻の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1426年10月6日

姓 :朱(しゅ)氏
名称:瞻圻(せんき)

国:明
地位:郡王→漢王世子→庶人

父:朱高煦(漢王)
母:

兄:朱瞻壑(漢王世子)

妻:王氏
子供:不明

 

日本では室町時代になります。

成年は不明。

父は漢王・朱高煦

兄に漢王世子の朱瞻壑がいます。

朱瞻圻(しゅ・こうき)は漢王の次男です。

永楽年間に「郡王」になりました。

永楽帝とともに北京に滞在しました。

永楽帝が北征した際、朱瞻圻は北京に滞在していました。

永楽19年(1421年)。兄の漢王世子・朱瞻壑が死亡。

朱瞻圻は母が父に殺されたと信じていて。祖父の永楽帝に父の罪を上奏しました。でも永楽帝は「お前たちは親子だろ。我慢しろ」とまともに取り合おうとせず漢王 朱高煦を罰することはありませんでした。

朱高煦も朱瞻圻が上奏したのは知っていました。

永楽22年(1424年)。永楽帝が死去。

皇帝の遺訓により朱瞻圻が「漢王世子」になりました。

 

洪熙帝の時代・庶人に落とされる

永楽22年(1424年)。洪熙帝 朱高熾 が即位。

朱瞻圻は北京にいて一日に六、七通の手紙を送り、中には「朝廷が楽安(朱高煦の領地)に兵を送るつもりだ」という嘘の文もあり。父に反乱を起こさせようとしました。

漢王 朱高煦が北京にやってきて朱瞻圻が朱高煦に送っていた数十通の密書を洪熙帝 に提出。中には嘘の情報もありました。父に対して反乱を煽っていたことがバラされてしまい、不幸者と叱りました。

洪熙帝は朱瞻圻を呼び出し「あなたは父や兄弟との間で讒言を繰り返し、兄弟を仲違いさせようとした」と述べました。

朱高煦はさらに「私は彼の父親だが、瞻圻は永楽帝の前でさえ私を中傷しました。陛下にしてどうでしょう!彼の罪は死刑に値します!」と述べました。

洪熙帝は「若者を処刑することはない。鳳陽で陵墓を守れ」と言い、朱瞻圻を庶人に降格。鳳陽で陵墓を守らせました。

その後、洪熙帝はは朱高煦の三男・朱瞻坦を漢王世子にしました。

 

宣徳帝の時代・父の謀反で連座

宣徳元年(1426年)。父の漢王 朱高煦が宣徳帝に対して反乱を起こしましたが失敗。

鳳陽にいた朱瞻圻も連座で処刑されました。

 

テレビドラマ

 尚食 2022年、中国 演:王一哲 役名:游一帆/朱瞻礼
 ドラマでは実子ではなく、養子の設定。名前も游一帆/朱瞻礼に変更されています。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました