嘉靖帝・道教オタクで政治を疎かにした明朝皇帝

明2 明・宋

嘉靖帝(かせいてい)は明朝の第12代皇帝です。

嘉靖帝は道教に熱心であまり政治には関心がありませんでした。

そのため厳嵩(げん・すう)のような賄賂政治家の横暴を許してしまいます。

国内外でも様々な問題を抱えていました。

北ではモンゴルの侵入。南では倭寇(後期倭寇)も暴れています。

でもそのような問題を抱えていても晩年の嘉靖帝は政治にはあまり関わろうとせず趣味の世界に没頭して最期は道教の薬で中毒死してしまいます。

史実の嘉靖帝はどのような人物だったのか紹介します。

 

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嘉靖帝の史実

名前:朱厚熜(しゅ・こうそう)
廟号:世宗(せいそう)
生没年:1507~1566年
在位:1521~1566年

父:朱祐杬
母:蔣太后

孝潔皇后陳氏
継后張氏
孝烈皇后方氏
康妃杜氏(孝恪太后)。隆慶帝の母

他に側室69人以上

子供
穆宗 朱載坖
他に7男、5女

即位までのいきさつ

正徳2年(1507年)に生まれました。

父は朱祐杬(しゅ・ゆうげん)
朱祐杬は4代 成化帝の四男、10代 弘治帝の異母弟。11代 正徳帝の叔父です。

正徳帝には息子がいなかったので血縁者の中で一番近い朱厚熜(しゅ・こうそう)が
12代皇帝 嘉靖帝になりました。

嘉靖帝は正徳帝の従兄弟です。

宦官を処分

先代の正徳帝は大量の宦官を採用して贔屓にしていました。権力を手にした銭寧・江彬のように横暴になる者もいました。

そこで嘉靖帝の即位直後。重心の楊廷和(よう・ていわ)たちが中心になって宦官を大量に追放・処罰しました。

おかげで嘉靖帝時代は宦官の横暴は減りました。

嘉靖帝時代の功績ですが嘉靖帝が行ったのではありません。

「大礼の議」問題

嘉靖帝がこだわったのは自分の父を「皇帝」にすることです。

嘉靖帝は従兄弟の正徳帝のあとに皇帝になりました。そのため本家に養子入りする形で皇帝になってます。

嘉靖帝は系譜上は弘治帝の息子、正徳帝の弟です。そうしないと本家が途絶えてしまうからです。

ところが嘉靖帝は即位後に
父の朱祐杬が「皇考(皇帝の父)」
弘治帝は「伯父」と主張しました。

でもそうすると本家が「朱祐杬-嘉靖帝」の家系になってしまい。「成化帝-正徳帝」の家系が断絶します。

何百人の臣下が「成化帝」の家系の断絶に反対しました。でも張璁(ちょうそう)、桂萼(けいがく)、夏言(か・げん)たち賛成する者もいました。賛成者がいるので強気になった嘉靖帝は自分の意見を譲りません。反対する臣下200人あまりを廷杖して解任・投獄しました。

嘉靖3年(1524年)。最終的に反対派が折れて朱祐杬を 興献帝(後に献皇帝)として祀ることになりました。

宦官追放に功績のあった楊廷和はこの事件で嘉靖と対立して引退(5年後に死亡)します。

でも決着に約3年もかかり、その間朝廷の仕事も滞りがちでした。儒教国家ではどうでもいい議論に時間を費やして肝心なことが決められない。ということがよく起こります。

さらにこの騒動の結果、嘉靖帝に反対する臣下が激減。嘉靖帝のご機嫌取りばかりする臣下が増えました。

残酷な皇帝

隆慶帝は気に入らないことがあると宮中の者に厳罰を与えました。些細な罪でも廷杖(杖で叩く)、左遷などを行うこともありました。在任中に200人以上が死亡したといいます。

ドラマの廷杖はたいしたことはなさそうですが。廷杖は死亡することもある重い罰です。死にたくはないのでだんだん皇帝に反対するものは減っていきます。

壬寅宮変

嘉靖21年(1542年)
嘉靖帝の暗殺未遂事件が起こりました。犯人は楊金英を筆頭に16人の宮女、2人の妃嬪と16人の宮女、常在、答応の二人の側室です。

楊金英たちは寝ている嘉靖帝をみんなで押さえつけて首をひもで締めようとしたものの、動揺した宮女はひもの結び方を間違えてしまい、締まらなくなってしまいました。様子がおかしいことに気がついた宮女の張金蓮は孝烈皇后を呼びに行きました。嘉靖帝は孝烈皇后たちに助けられたもののしばらく昏睡状態が続き、医師の診察で回復しました。

犯行に加わった宮女たちは処刑されました。

犯行理由は諸説あってよくわかりません。日頃から宮女を虐待している嘉靖帝に怨みを持っていたともいいます。

道教にはまる

嘉靖帝は道教を信じていました。中国皇帝には道教を信じる人がよくいます。でも嘉靖帝は度を越していました。

自分で道教の儀式を行っていました。

嘉靖帝は道教の「青詞(祭文)を作るのが上手」という理由だけで高官に採用しました。そのせいで嘉靖帝のまわりには道教には詳しいけど政治はよく知らない高官が増えました。

「大礼の議」で嘉靖帝に味方した夏言も道教の祭文を作る人でした。

夏言を陥れて出世した厳嵩(げん・すう)も道教の祭文を作るのが得意です。

とくに厳嵩の時代は嘉靖帝が朝議を放棄して厳嵩に任せっきりになってしまったので。厳嵩が政治の最高責任者になってしまいました。

大きな力をもった厳嵩親子は多額の賄賂をとりました。そのため厳嵩は「青詞宰相」と呼ばれました。

嘉靖31年(1552年)。嘉靖帝は徐階(じょ・かい)を採用。徐階も道教の祭文を作る事ができます。晩年の嘉靖帝は厳嵩の作る祭文に満足できなくなりました。新しい才能を見つけた嘉靖帝は徐階を気に入って贔屓にしました。厳嵩は嘉靖帝の支持を失いました。

厳嵩の権力が衰えると、もともと評判の悪かった厳嵩の息子・厳世蕃が臣下たちから弾劾を起こされて処刑。そして厳世蕃をクビにします。

北虜南倭(ほくりょなんわ)

嘉靖帝時代に大きな問題になったのが北虜南倭(ほくりょなんわ)です。

モンゴルとの対立

嘉靖25年(1546年)。モンゴル(元)の皇帝(ハーン)アルタン・ハーンは明に朝貢貿易と互市を要請しました。

貿易といっても明の朝貢貿易は採算度外視でカネ(物)をバラマキ、周辺国に明の皇帝を「世界の皇帝」として認めさせる制度。モンゴルは明の皇帝から「○○汗(汗=王)」という称号をもらって貿易します。

需要と供給のバランスを無視して中華思想のメンツのために行っています。

でも朝貢貿易する側にとってはボロ儲けです。

明が強い時はそれでも良かったのです。朝貢する側の要求が大きくなったこと。明が衰退したこと。などの理由で明が負担に耐えられなくなりました。

そこで明は支払額を減らし朝貢も制限しました。

嘉靖帝が拒否するとアルタン・ハーンは軍を率いて明に侵入して略奪しました。

嘉靖29年(1550年)。万里の長城を越え北京を包囲しました。この時は脅しだけで帰っていきましたが。1551年にもやってきました。

明の朝廷は武力に屈して仕方なく朝貢を許しました。

アルタン・ハーンの攻撃を庚戌の変(こうじゅつのへん)といいます。

寧波の乱

日本は日明貿易(勘合貿易)を行っていました。

明とモンゴルの朝貢貿易と同じです。明の皇帝が与える「日本国王」の称号を認めれば朝貢貿易で莫大な利益が得られます。

明の皇帝から承認してもらわないと君主としての正当性が保証できない朝鮮国王と違い。日本国王は日本国内では通用しません。貿易したい人が明と貿易するときの肩書です。

日明貿易では主な商品は日本刀でした。国内で銭1貫(1000匁)だった日本刀が明にもっていけば銭5貫で売れました。価値が5倍になるので貿易のコストを差し引いても儲けになります。

日明貿易は足利家が行っていました。応仁の乱で足利家の力が落ちると守護大名の大内家や管領の細川家が独自に遣明使を派遣するようになりました。

嘉靖2年(1523年)。大内の貿易船が入港している所に細川の貿易船が入港。どちらが正式な遣明使か争いになりました。このときの正式な使節は大内家でしたが。細川は明の役人に賄賂を送って使者になりすましました。明の朝廷は細川を正式な遣明使と認めました。

もちろん大内は怒ります。大内が細川の貿易船を焼き討ち。明の役人は細川に味方しました。すると大内は明の役人も攻撃。この騒動で明の役人が殺害され、寧波の街も被害を受けました。

明は日本との貿易を停止。数年後に再開されましたが貿易船の数は縮小しました。

この騒動を 寧波(ニンポー、ねいは)の乱 といいます。

西草湾の戦い

寧波の乱とほぼ同じころ。

嘉靖2年(1523年)。ポルトガル人がやってきて広東省の役人に貿易を求めました。広東省の役人が拒否。さらに明の水軍はポルトガル船を攻撃して追い返しました。

正式な貿易を断られたポルトガル商人はやがて倭寇と結びついて密貿易をするようになります。

後期倭寇

寧波の乱をきっかけにして貿易の縮小で失業した商人たちが暴れるようになったのが倭寇(後期倭寇)です。

元寇のあとから室町時代初期の倭寇(前期倭寇)と区別して後期倭寇ともいいます。

最初は日本人倭寇が暴れていました。刀を振り回す倭寇は強く明の兵隊でも手に負えないほどでした。

そのうち倭寇の真似をしていれば稼げると考えた現地人が日本風の髪型と衣装で刀をもって暴れるようになりました。倭寇に入れば儲かるので倭寇に雇われた中国人もいます。

後期倭寇の7割~9割が中国人。残りが本物の倭寇だと明の記録は書いています。

嘉靖時代に活躍?した後期倭寇の王直(おう・ちょく)も任侠気質な明の貿易商です。

明の倭寇対策は内乱対策でもあったのです。

嘉靖帝時代はモンゴルや倭寇に悩まされました。戚継光(せき・けいこう)や兪大猷(ゆ・たいゆう)たち将軍の活躍もあってある程度はおさまりましたが。倭寇の問題は万暦帝の時代まで続きます。

明で海禁令(鎖国令)が解除されて貿易が再開されたこと。日本で戦国時代が終わり豊臣秀吉が海賊対策を行ったこともあって後期倭寇は終わります。

倭寇と鉄砲伝来

嘉靖22年・日本では天文12年(1543年)。種子島に異国の商人の船が漂着。乗っていたのはポルトガル商人と明の通訳。種子島時堯は彼らから鉄砲を買いました。これが種子島の鉄砲伝来。

このとき通訳をしたのは明の五峯という人物。五峯は中国人倭寇の頭目・王直(五峯は王直の雅号=ペンネームです)というのが有力。

彼らは寧波に向かおうとしていた倭寇と、シャム(タイ)からやってきたポルトガル商人でした。

最期は中毒死

このように嘉靖帝の時代は様々な問題を抱えていました。

嘉靖帝は道教にハマっていましたが、晩年になると隆慶帝は紫禁城には住まず。20年近く朝議も放棄して重臣たちに政治を任せていました。

でも完全に権力を手放しているのではなく、処罰の決定は嘉靖帝が行っていました。面倒なことは人にやらせて、処罰は自分が行う都合のいい皇帝です。

そして丹薬を長年服用して中毒にかかり。

嘉靖45年(1566年)に死去します。享年61。

息子の朱載坖(しゅ・さいき)があとを継ぎ、13代 隆慶帝(りゅうけいてい)になりました。

登場したドラマ

大明王朝 〜嘉靖帝と海瑞〜 2006年、中国・ 演:陳宝国
花様衛士〜ロイヤル・ミッション〜 2019年、中国 演:丁勇岱

 

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