明朝皇帝 全17代16人を紹介

明2 明・宋

明朝は1368年から1644年まで276年続いた中華王朝です。

明の後は満洲人の作った清なので。漢民族がつくった最後の統一王朝といわれます。

明朝の時代はアジアでも様々なことが起こりました。
日本は室町時代から戦国時代、江戸時代へと移り変わり。
朝鮮半島では高麗から李氏朝鮮へと王朝が変わりました。
モンゴル高原にはモンゴル帝国(元)がいましたが、いくつもの部族が集まっては分裂をしてを繰り返していました。

明の時代は意外と複雑でややこしい時代。有名なわりに知られていないのが明朝時代です。皇帝を並べてみてその業績をみてみると明がどんな時代だったのかわかりやすくなるかもしれません。

明朝の歴代皇帝17代16人を簡単に紹介します。

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「明」の意味

建国者の朱元璋は自分の国に「明」の名前をつけました。朱元璋はもともと白蓮教徒でした。

白蓮教の教祖は「明王=救世主」とよばれていました。

白蓮教は浄土教にマニ教(明教)、弥勒信仰が混ざったもの。マニ教はゾロアスター教の影響を受けています。光や救世主への崇拝をうけついでいます。

モンゴル帝国の「元=天」に対抗して「明=太陽」の意味もあります。

明朝の歴代皇帝・建国から発展の時期

初代 洪武帝(こうぶてい)

名前:朱元璋(しゅ・げんしょう)
廟号:太祖
生没年:1328 – 1398年
在位:1368 – 1398年

父:朱五四
母:淳皇后陳氏

農民出身。紅巾の乱で紅巾軍に加入。紅巾の乱は宗教団体の白蓮教が中心になって起こした反乱。白蓮教徒の郭子興の部下になって活躍して、郭子興の娘婿になり出世。郭子興の死後は彼の軍をひき継いで紅巾軍の幹部になりました。その後、各地の反乱軍や同じ紅巾軍の軍閥を倒して勢力拡大。「呉王」を名乗ります。

1368年。応天府(南京)を占領して皇帝に即位。国号を「明」にします。

元で内乱が起こると元を攻めて首都・大都(北京)を占領。その後もモンゴル軍と戦い、万里の長城の外に追い出します。

国内では制裁と弾圧を繰り返し、独裁的な政治を行いました。儒教の影響で農業を重視。大商人を弾圧するなど商業をないがしろにしました。海禁(鎖国の中国版)を実施。海外貿易を制限しました。

明の商業軽視。貿易するなら朝貢のみ。という方針は後に様々な問題が出て明を苦しめます。

1392年。高麗でクーデターが発生。李成桂が即位。明に使者が来たので李成桂を「権知高麗国事」に任命。翌年、国号の「朝鮮」を承認。李成桂を「権知朝鮮国事」に任命しました。

そのころの日本

室町時代
3代将軍 足利義満(1358~1408年)

 

2代 建文帝(けんぶんてい)

名前:朱允炆(しゅ・いんぶん)
廟号:恵宗
生没年:1328 – 1398年
在位:1398 – 1402年

父:朱標
母: 呂氏

光武帝の皇太子・朱標の次男。父が38歳で死去したので祖父のあとをついで皇帝になりました。皇帝の力を強めるため皇族を粛清。特に燕王・朱棣(後の永楽帝)とは激しく対立。結局、朱棣に反乱を起こされ皇位を奪われました。

永楽帝は自分を正当化するために建文帝は即位していないことにしました。建文帝を明の皇帝として認めたのは清朝の乾隆帝からです。

そのころの日本

室町幕府
4代将軍 足利義持
大御所 足利義満。明との貿易を望んだ義満は明に使者を送りました。永楽帝は義満に「日本国王」の称号を与え貿易を許可します。「日明貿易」の始まり。明は武力で服従させられない国には「皇帝」と認めてもらうため採算度外視でカネを配ります。日明貿易はかなり儲かるのです。

 

3代 永楽帝(えいらくてい)

名前:朱棣(しゅ・てい)
廟号:太宗(たいそう) → 成祖(せいそ)
生没年:1360 – 1424年
在位:1402 – 1424年

父:洪武帝
母:孝慈高皇后

明を建国した洪武帝・朱元璋の四男。明の建国に貢献。建国後もモンゴル(北元)との戦いました。軍人としては有能でした。皇族への粛清を続ける建文帝に激しく抵抗。

1402年。甥の建文帝を滅ぼして皇帝の座を奪いました。永楽帝は建文帝を歴史から抹殺。錦衣衛を使って国民を監視。東廠という諜報組織を作り反対派を取り締まりました。洪武帝のように恐怖政治を行います。

領土を広げるために積極的に遠征。満州地方を支配下におき、モンゴルやティムールとは敵対。

鄭和艦隊を海外に派遣して朝貢国を増やそうとしました。

洪武帝が嫌って削減していた宦官を増やして重用。

首都を北京に遷都。

死後・太宗の廟号が贈られましたが。嘉靖帝の時代に成祖の廟号が贈られました。

・満洲地方に建州衛、西海衛(衛=軍隊)を設置。女直(女真)を支配下において監視をつよめます。

そのころの日本

室町幕府
4代将軍 足利義持
大御所 足利義満。このころから「勘合=証明書」が発行。そのため「勘合貿易」ともいいます。

明朝の全盛期

4代 洪熙帝(こうきてい)

名前:朱高熾(しゅ・こうし)
廟号:仁宗(じんそう)
生没年:1378 – 1425年
在位:1424 – 1425年
父:永楽帝
母:仁孝文皇后徐氏

永楽帝の長男。父の死後、即位しました。独裁を緩め海外遠征を中止。父とは反対の政策を行いましたがわずか1年で病死。経営の維持が難しくなった満州地方、大越(ベトナム)から撤退。その一方で鄭和の海外遠征を再会しました。

そのころの日本

室町幕府
4代将軍 足利義持
5代将軍 足利義量

 

5代 宣徳帝(せんとくてい)

名前:朱瞻基(しゅ・せんき)
廟号:宣宗(せんそう)
生没年:1378 – 1435年
在位:1425-1435
父:洪熙帝
母:誠孝昭皇后

洪熙帝の長男。

即位直後に叔父の漢王 朱高煦が反乱。宣徳帝は反乱を鎮圧。皇族への監視を強化して宰相も廃止。独裁を強めます。皇帝の手足として宦官の権限を強化しましたが、後に宦官の横暴を許す原因になります。

その後は国内は安定。洪熙帝~宣徳帝の時代が明の全盛期といわれます。

そのころの日本

室町幕府
5代将軍 足利義量(在職1423~1425年)、大御所・足利義持
6代将軍 足利義教(在職1429~1441年)

 

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オイラトに敗北・衰退の始まり

6代 正統帝(せいとうてい)

名前:朱祁鎮(しゅ・ちきん)
廟号:英宗(えいそう)
生没年:1427 – 1464年
在位:1435-1449

父:宣徳帝
母:孝恭章皇后 孫氏

宣徳帝の長男。わずか9歳で皇帝になりました。張太皇太后の後見と先代から仕えた楊士奇たち有能な臣下のおかげで政治は安定。楊士奇たちが死亡すると宦官の王振が横暴になり政治が混乱。宦官が政治を動かす時代になります。

1434年。オイラトがモンゴル平原の遊牧民を統一。

朝貢貿易がもとでオイラトとトラブルになり。怒ったオイラトが攻めてきました。正統帝は自ら軍を率いて遠征。ところが土木堡で敗退。王振は死亡。オイラト軍の捕虜になってしまいます。オイラトのエセンは正統帝を人質にして身代金を要求。

朝廷は拒否して異母弟の朱祁鈺を新しい皇帝にしました。

中国史上唯一の戦場で捕虜になった皇帝。

英宗・朱祁鎮の詳しい説明はこちら

そのころの日本

室町幕府
6代将軍 足利義教
7代将軍 足利義勝

 

7代 景泰帝(けいたいてい)

名前:朱祁鈺(しゅ・きぎょく)
廟号:代宗(だいそう)
生没年:1428 – 1457年
父:宣徳帝
母:孝翼太后 呉氏
在位:1449-1457年

異母兄の正統帝が捕虜になったので朱祁鈺は重臣たちに担がれる形で皇帝に即位。王振の一族を処刑。于謙らの活躍でオイラトとの戦争を終わらせました。オイラトから戻ってきた朱祁鎮(正統帝)は軟禁しました。

後継者問題でもめて朝廷内は混乱。支持をとりつけるために臣下に金品を配ったので「臣下に賄賂を送る皇帝」とバカにされました。病気で寝込んだところを反乱を起こされました。

幽閉から解放された朱祁鎮が再び皇帝になります。

しばらくして景泰帝は死亡。

景泰帝・朱祁鈺の詳しい説明はこちら

そのころの日本

室町幕府
8代将軍 足利義政。

 

8代 天順帝(てんじゅんてい)

名前:朱瞻基(しゅ・ちきん)
廟号:英宗(えいそう)
生没年:1427 – 1464年
在位:1457-1464年
父:宣徳帝
母:孝恭章皇后 孫氏

二度目の即位。
景泰帝を即位させた責任者として于謙を処刑。明が残ったのは于謙のおかげといってもいいくらいですが。天順帝は于謙が許せませんでした。
明では皇帝が死ぬと妃嬪の殉葬がありました。天順帝は殉葬を禁止しました。

そのころの日本

室町幕府
8代将軍 足利義政。

 

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とりあえず持ち直した時期

9代 成化帝(せいかてい)

名前:朱見深(しゅ・けんしん)
廟号:憲宗(けんそう)
生没年:1447 – 1487年
在位:1464-1487年
父:英宗
母 貴妃周氏(孝粛皇后)

朱瞻基の長男。

迷信深く道教に凝っていました。秘密警察の西廠を作り臣下を見張らせました。

幼い頃から面倒をみてくれた宮女の万氏に非常に懐いていました。成化帝に即位すると、万氏を妃(後に貴妃)にして寵愛しました。20歳年上の万貴妃を皇后にはできませんでしたが、実際には皇后以上の力を持っていました。

成化帝は非常な「どもり」だったので万貴妃を通さないと臣下に命令が伝えられないほど。おかげで万貴妃の影響力が強くなりすぎて政治も混乱します。

万貴妃の死後、悲しんだ成化帝もまもなく死亡。

そのころの日本

室町幕府
8代将軍 足利義政
9代将軍 足利義尚

応仁の乱(1467~1477年)。義政は応仁の乱の最中に死亡。

 

10代 弘治帝(こうちてい)

名前:朱祐樘(しゅ・ゆうとう)
廟号:孝宗(こうそう)
生没年:1470 – 1505年
在位:1487-1505年
父:成化帝
母:淑妃紀氏

万貴妃に殺されそうになったこともありますが。周太后たちに守られて無事成長しました。即位後にまず行ったのは成化帝が大量に採用していた道士の追放でした。一時的に不老長寿の薬にハマった事がありましたが、気がついて止めました。

その後は真面目に政治を行い、モンゴルの侵入を防ぐため北の守りも強化しました。

洪熙・宣徳時代から後では一番マトモな皇帝といわれます。

そのころの日本

室町幕府
9代将軍 足利義尚
10代将軍 足利義材
11代将軍 足利義澄
このころ戦国時代に突入

 

11代 正徳帝(せいとくてい)

名前:朱厚㷖(しゅ・こうしょう)
廟号:武宗(ぶそう)
生没年:1491 – 1521年
在位:1505-1521年
父:弘治帝
母:孝康敬皇后張氏

政治にあまり感心がなく遊んでばかりの皇帝でした。代わりに政治を行ったのが遊び仲間だった宦官の劉瑾でした。

戦争ごっこが好きで、紫禁城の中で軍事演習をしていましたが。それに飽きると自ら軍を率いて遠征しました。でも敵がいない遠征で、遠征先で美人をさらっていました。

実際に反乱が起きたときは現地の軍が鎮圧。でもそれを口実に敵のいない南京に遠征。お遊びの遠征を繰り返して財政を圧迫しました。

その劉瑾は自分が皇帝になろうと謀反を計画。別の宦官に密告されて劉瑾は処刑されました。

正徳帝は舟遊びの最中に船から落ちて溺死。

跡継ぎがなかったので従兄弟の朱厚熜(しゅ・こうそう)が次の皇帝になりました。

そのころの日本

室町幕府
11代将軍 足利義澄
足利義尹(義稙)

 

国内の腐敗と異民族との戦いで衰退

12代 嘉靖帝(かせいてい)

名前:朱厚熜(しゅ・こうそう)
廟号:世宗(せいそう)
生没年:1507-1566年
在位:1521-1566年

父:朱祐杬
母:蔣太后

従兄弟の正徳帝のあと12代皇帝になりました。

嘉靖帝の即位直後。臣下たちの主導で正徳帝が贔屓にしていた銭寧・江彬を追放、大量の宦官が処罰されました。おかげで嘉靖帝時代は宦官の横暴は減りました。

嘉靖帝は系譜上は本家の養子、弘治帝の息子、正徳帝の弟の形にしました。そうしないと本家が途絶えてしまうからです。ところが嘉靖帝は即位後に父の朱祐杬が「皇考(皇帝の父)」、弘治帝は「伯父」と主張しました。臣下を巻き込んで大騒動になり、嘉靖帝に反対する者は粛清されました「大礼の議」。この議論の決着に3年かかりました。

嘉靖帝は自分に賛成する者に要職を任せ、反対する者は左遷したり罰を与えました。嘉靖帝に気に入られた厳嵩は賄賂をとり、政治の腐敗が進みました。

その一方で北はモンゴルの侵攻、南は海賊(倭寇と呼ばれますが海賊の7~9割は中国人)の被害に苦しんだ時代でした。

そのころの日本

室町幕府
12代将軍 足利義晴
13代将軍 足利義輝
三好長慶

13代 隆慶帝(りゅうけいてい)

名前:朱載坖(しゅ・さいき)

廟号:穆宗(ぼくそう)
生没年:1537-1572年
在位:1566-1572年

父:嘉靖帝
母 孝恪太后杜氏

この時代もあいかわらず「北虜南倭」とよばれるモンゴルと倭寇(海賊)に悩まされていました。

そこで海禁(中国場の鎖国)政策をみなおして貿易をある程度認めることにしました。モンゴルや倭寇は貿易の利益が欲しくて暴れていた人が多かったので彼らをなだめることに成功しました。結局「北虜南倭」は明が自分で問題を大きくしていたのです。

でも隆慶帝は政治にはあまり関心がなくて臣下たちが政治をしていました。

不摂生な生活をしていたために36歳で死亡。

そのころの日本

室町幕府
13代将軍 足利義輝
14代将軍 足利義栄
15代将軍 足利義昭 

 

14代 万暦帝(ばんれきてい)

名前:朱翊鈞(しゅ・よくきん)

廟号:神宗(しんそう)
生没年:1563-1620年
在位:1572-1620年

父: 隆慶帝
母:貴妃李氏

10歳で即位。宰相の張居正が政治を行い。税制を改めてある程度財政は改善。しかし公共事業の廃止は民間業者の不満を溜め込むことになり、後の李治世の反乱に繋がります。

成人した万暦帝は自ら政治を行いました。しかし堕落していきます。

1589年。ヌルハチが建州女直(マンジュ国)統一。

1592年。豊臣秀吉が「明の征服」を目指して出兵。日本軍が朝鮮に上陸しました。文禄・慶長の役(1592~1598年、中国では「万暦朝鮮の役」)が起こりました。万暦帝は朝鮮 宣祖の援軍要請に応えて朝鮮半島に出兵。明軍は日本軍と戦いました。

ところが明軍が日本軍と戦っている間に満州地方の守りが手薄になりました。その間にヌルハチは女真の他の部族を次々に攻略しました。

他にも寧夏の哱拝の乱、播州の楊応龍の乱も起こり出費が増えて財政を圧迫。それにも関わらず万暦帝は贅沢をしていました。

1616年。ヌルハチが後金を建国。
明がヌルハチの勢力拡大に気づいてヌルハチ討伐を決定。
1619年。明は10万の兵で後金を攻めました。朝鮮に援軍要請。朝鮮王の光海君は援軍を派遣しました。しかし明・朝鮮連合軍はサルフの戦いで後金に敗北。ヌルハチの勢いは止められません。

大変な時期でしたが万暦帝は政治を疎かにしたので「明は万暦で滅ぶ」といわれるほどです。

そのころの日本

室町幕府
15代将軍 足利義昭 
室町幕府滅亡
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康 
1603年 江戸幕府誕生
初代将軍 徳川家康 
2代将軍 徳川秀忠 

 

15代 泰昌帝(たいしょうてい)

名前:朱常洛(しゅ・じょうらく)

廟号:光宗(こうそう)
生没年:1582-1620年
在位:1620年

父:万暦帝
母:恭妃王氏

万暦帝の長男。即位して1ヶ月で病死。死があまりもにも早すぎたので死因については諸説あり。

明の滅亡

16代 天啓帝(てんけいてい)

名前:朱由校(しゅ・ゆうこう)

廟号:熹宗(きそう)
生没年:1605-1620年
在位:1620-1627年

父:泰昌帝
母:孝和太后王氏

父が急死したので16歳で即位。

宦官の魏忠賢の横暴が激しく。賄賂がはびこっていだ時代。
明の朝廷では派閥争いに夢中。魏忠賢が政敵を一掃して権力を握ると自分を神として祀らせるほど。それでも天啓帝は魏忠賢を信じていました。

満洲地方ではヌルハチの後金が勢力拡大中。遼東の中心都市・遼陽が陥落。明の朝廷に衝撃が走ります。明は万里の長城の端・山川関を防御の拠点にして後金への戦いに備えます。

天啓帝は23歳で死亡。天啓帝には男子がいなかったので。異母弟の朱由検(しゅ・ゆうけん)があとを継ぎました。

そのころの日本

江戸幕府
2代将軍 徳川秀忠
3代将軍 徳川家光

 

17代 崇禎帝(すうていてい)

名前:朱由検(しゅ・ゆうけん)

廟号:思宗、毅宗、威宗、懐宗
生没年:1611-1644年
在位:1627-1644年

父:泰昌帝
母:賢妃劉氏

即位してまず宦官の魏忠賢を処刑。

天啓帝たちと違い崇禎帝は政治には熱心でした。
ところが疑い深く重臣たちを次々に処刑していきます。

宦官の進言を信じて後金から明を守っていた袁崇煥を処刑してしまいます。ホンタイジが流した嘘の情報に騙されのでした。

天啓年間、崇禎年間に大旱魃がおこり各地で反乱が起こりました。やがて李治世を中心に反乱勢力がまとまります。

1644年。西安を占領した李治世は「大順王」を名乗り。国号を「順」にしました。

李治世たち順軍に北京を包囲され、陥落。
崇禎帝は息子を紫禁城から逃し、側室、娘たちを殺害。皇后の自害を見届けた後、紫禁城の裏山で首を吊って自害しました。

276年続いた明王朝はここに滅亡しました。

そのころの日本

江戸幕府
3代将軍 徳川家光

 

明が滅亡した原因

意外なようですが明を滅亡させたのは「清」ではなく国内の反乱勢力が作った「順」でした。

実力以上に大国意識を持ってカネをばらまいた(朝貢貿易)結果。カネ目当てで群がってくる周辺民族とトラブルになって国力を消耗。国内でも賄賂や搾取がはびこり国民を苦しめ大規模な反乱が起きてしまい。様々な理由で女直(女真)が成長して最大のライバル国になって。最後は国内の反乱で滅んでしまいました。

 

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