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景泰帝・朱祁鈺(しゅ・きぎょく)捕虜になった兄の代わりに皇帝になる

明 2.1 明の皇帝・皇子

朱祁鈺(しゅ・きぎょく)は明の第7代皇帝です。

廟号は 代宗(だいそう)、一般には 景泰帝(けいたいてい)と呼ばれます。

皇帝になる前は郕王(せいおう)と呼ばれました。

兄・英宗がオイラトの捕虜になったので皇帝になりました。英宗が釈放されたあとも皇帝を続けます。

若くして病になり後継者も決めなかったので家臣たちが英宗を担ぎ出して皇帝の座を奪われました。

史実の朱祁鈺・代宗はどんな人物だったのか紹介します。

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朱祁鈺/代宗の史実

いつの時代の人?

生年月日:1428年9月21日
没年月日:1457年3月14日

名称:朱祁鈺(しゅ・きぎょく)
通称:景泰帝(けいたいてい)
国:明
廟号:代宗(だいそう)
地位:郕王(せいおう)→皇帝→郕王(死後降位)
父:宣徳帝
母:孝翼太后呉氏
正室:
孝淵景皇后汪氏
粛孝皇后杭氏

子供:朱見済

彼は明の第7代皇帝です

日本では室町時代になります。

おいたち

1428年。5代皇帝・宣宗の次男として産まれました。

1435年。兄・正統帝(英宗)が即位すると郕王に任命されました。

オイラトが攻めてきて正統帝が迎撃のため遠征します。ところがオイラトの捕虜になってしまいました。(土木の変)

慌てた朝廷はオイラトが首都・北京に攻めてくるのではないかと考え首都を南京に移そうとしました。

兵部侍郎(軍事次官)の于謙が徹底抗戦を主張して遷都を辞めさせました。

皇太后孫氏の命令で朱祁鈺(しゅ・きぎょく)が監国(摂政)に任命されました。朱祁鈺はさらにそのあと皇帝に即位しました。

皇帝・代宗の時代

代宗は最大の責任は王振があると考えました。でも王振は遠征先で既に殺害されていました。そこで王振の一族を粛清、財産を没収しました。

于謙を要職につけて北京の防衛にあたらせました。

オイラトとしては皇帝を人質にして明から身代金を得るつもりでした。ところが明の徹底抗戦にあって考え直しました。オイラトはお金が目的だったので戦いが長引いて出費がかさむのも嫌だったのです。

そこでオイラトは明と和睦、英宗を明に返しました。

しかし代宗としては英宗の存在はかえって邪魔でした。英宗に太上皇帝の称号を贈り政治的な権限をなくすとともに、英宗を南宮に移して軟禁状態にしました。

英宗の息子・朱見深を皇太子にする条件をだして英宗を納得させました。

1452年(景泰3年)。一度は朱見深を皇太子にすると約束した英宗でしたが、自分の息子・朱見済を皇太子にしようと考えました。

朱見深を廃位させるため重臣たちに金を与えて懐柔しました。そのため「臣下に賄賂を送った皇帝」と言われることもあります。

汪皇后は朱見深の廃位に反対しました。でも代宗は激怒して汪皇后を廃位。代わりにの朱見済の母・杭氏を皇后にしました。

こうしての朱見済は皇太子になったのですが、翌年に病死してしまいました。

1457年(景泰8年)。しかも代宗自身も病気で寝込んでしまいます。代宗には他に男子がいないので跡継ぎが決まっていません。跡継ぎが決まっていないことに危機感をもった臣下たちは後継者を決めるように上奏します。でも代宗は後継者を決めませんでした。

1457年(景泰8年)1月。英宗を支持する石亨、徐有貞、曹吉祥たちが幽閉先の宮殿から救出しました。代宗派の于謙・王文・太監王誠は処刑されました。病床で寝ている代宗は抵抗できずに幽閉され、英宗が皇帝に即位しました。(奪門の変)。

代宗はその年のうちに病気が悪化して死亡しました。暗殺されたともいわれます。享年30。

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