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宣徳帝・朱瞻基 明朝が一番よかった時代の皇帝

明 2.1 明の皇帝・皇子

宣徳帝(せんとくてい)朱瞻基(しゅ・せんき)は明朝の第5代皇帝です。

3代 永楽帝からは期待をかけられ、一緒に戦場に出たりして君主としての教育を受けていました。

宣徳帝の時代は「仁宣の治」と呼ばれ、明朝がもっとも栄えた時代だったといわれます。

その一方で、皇帝の独裁が進み宦官に力を与えるなど、のちの時代に悪影響を与える出来事もおこりました。

史実の宣徳帝はどんな人物だったのか紹介します。

 

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宣徳帝(せんとくてい)の史実

プロフイール

生年月日:1399年3月16日
没年月日:1435年1月31日
在位期間:1425年6月27日~1435年1月31日

姓 :朱(しゅ)
名称:瞻基(せんき)

国:明
地位:皇太子→皇帝
廟号:宣宗

父:洪熙帝
母:誠孝昭皇后
正室:
恭譲章皇后 胡善祥
孝恭章皇后孫氏
側室:
賢妃呉氏(孝翼皇后) – 景泰帝の母

子供:
英宗 朱祁鎮 (母:孝恭章皇后 孫氏)
景泰帝 朱祁鈺(母:賢妃 呉氏)
女子
順徳公主(母:恭譲章皇后 胡氏)
永清公主(母:恭譲章皇后 胡氏)
常徳公主(母:孝恭章皇后 孫氏)

日本では室町時代になります。

 

おいたち

1399年(洪武32年)誕生。父は朱高熾(しゅ・こうし、後の洪熙帝)。

1402年(建文4年)。祖父の永楽帝が即位。
父・朱高熾が皇太子になりました。

父の朱高熾は病弱でした。武官たちからの評判が悪く、武官たちは次の皇帝には漢王・朱高煦を希望していました。祖父の永楽帝も不満でした。

でも文官たちは粗暴な漢王は嫌っていました。それに永楽帝は朱瞻基を気に入っていました。

そこで妥協案として将来は朱瞻基が後を継ぐ。という前提で朱高熾の皇太子の座が保証されたようです。

1414年(永楽12年)。21歳の朱瞻基は祖父・永楽帝のモンゴル遠征に同行しました。永楽帝は朱瞻基は聡明で優れていると言って大変気に入っていました。そこで遠征にも参加させて兵法を学ばぜ、将兵の苦労や戦いが決して楽なものでないことを教えました。朱瞻基は祖父から将来の皇帝としての英才教育を受けました。

永楽帝と朱瞻基がモンゴル軍と戦った時、明軍は苦戦しました。そこで朱瞻基が撤退を提案しました。永楽帝は孫の意見を聞いて撤退を決断しました。

戦いのベテランで甥から皇帝の座を奪った永楽帝が、20歳そここでたいして実戦経験のない孫の朱瞻基の意見に従うとは思えません。朱瞻基が言わなくても永楽帝なら撤退のチャンスが分かったでしょう。

でも永楽帝は、朱瞻基には軍団指揮官としての素質がある。皇帝として素質がある(だから漢王にはつがせない)。と将兵たちに広めたかったようです。

洪熙帝の時代

1424年(永楽22年)祖父の永楽帝が死去。
父の洪熙帝が即位しました。
朱瞻基は皇太子になりました。

洪熙帝は南京への遷都を考えていました。そこで皇太子の朱瞻基を南京に派遣。遷都の準備をさせようとしました。

ところがもともと病弱だった洪熙帝はわずか9ヶ月で死去します(享年46)。

南京にいた朱瞻基は急いで首都・北京に向かいました。ところが皇帝の座を狙う漢王 朱高煦は朱瞻基を暗殺しようとしましたが失敗します。

宣徳帝の時代

1424年(洪熙元年6月12日)。朱瞻基が即位しました。26歳でした。
元号を 宣徳(せんとく)にしました。

そのため「宣徳帝」と呼ばれます。

漢王 朱高煦の反乱

朱瞻基の暗殺に失敗したは漢王 朱高煦は兵を集め挙兵しました。

首謀者の漢王 朱高煦は戦場では永楽帝譲りの才能を発揮した人でした。武官たちからの支持も高く、朱高煦を皇太子にしてはという意見も会った人物です。

建文帝は燕王(後の永楽帝)が謀反を起こしたときの判断が遅く、燕王に情けをかけようとしたので負けました。漢王は今回は自分が永楽帝のように皇帝になる。と思っていたでしょう。

でも宣徳帝は建文帝と違いすぐに漢王討伐の軍を動かしました。自ら兵を率いて漢王の本拠地・楽安を攻めて、漢王を降伏に追い込みました。

宣徳帝は朱高煦を捉えて紫禁城に監禁しました。
しばらくして宣徳帝が朱高煦の様子を見に行くと、朱高煦は宣徳帝を蹴飛ばしました。怒った宣徳帝は朱高煦を銅の壺に閉じ込めて焼き殺しました。

皇后胡氏を廃して寵愛する孫氏を皇后にする

宣徳帝の皇后は胡善祥でした。でも胡善祥は祖父・永楽帝が選んだ正妻。宣徳帝が気に入っていたのは側室の孫氏でした。

宣徳帝はお気に入りの孫氏をなんとか皇后にしたいと思います。胡善祥は男子を生んでいません。そこで宣徳帝は胡善祥を廃そうとしました。でも自分からは言い出せないので臣下に上奏させました。側近の楊栄(よう・えい)が21の罪を並べて皇后を廃すべきと意見書を提出しました。

ところがさすがの宣徳帝も21の罪は捏造しすぎと怒って楊栄を叱りつけました。自分から頼んでおいて勝手なものです。

でも子がないことなどを理由に胡善祥を廃して道教の寺に送り込み。寵愛する孫氏を皇后にしました。

独裁の強化

朱高煦の反乱以後、宣徳帝は諸王(王の爵位を与えられた皇族)への締め付けを強化します。

各地に領地を与えられた諸王に監視をつけました。諸王は外出には朝廷の許可が必要です。宣徳帝は諸王を事実上の軟禁状態にしたのです。

宣徳帝はさらに「宰相」を廃止しました。宰相は官僚のトップです。官僚たちが力を持つのを抑え込もうとしました。

こうして宣徳帝は独裁体制を強めていきます。

親族も官僚も頼れない。となったら頼るのは側近です。皇帝の側近になったのは宦官でした。宦官は皇族の生活の世話をしています。皇帝にとっては家族に近い存在です。

宦官に力をもたせる

宣徳帝はとくに楊栄・楊士奇・楊溥の三人の側近を頼りました。三人とも楊姓なので「三楊」といいます。

楊溥は永楽帝の内閣大学士(皇帝の政務を手伝う助手、秘書みたいなもの)の一人でした。

宣徳帝は内閣を頼るようになります。また永楽帝時代からの内閣大学士は宣徳帝にとっては師匠のような存在でしたから、発言力も高まりました。

光武帝は宦官が政治を行うのを防ぐため、宦官に学問は許しませんでした。永楽帝の時代には宦官も学問をするようになり三楊のような有能な宦官も現れました。

宣徳帝はさらに宦官のための学校・内書堂を設立。皇帝の秘書である太監の権限を強化しました。

皇族や大臣ではなく宦官が力をもちやすい制度をつくりあげたのです。

永楽帝が選んだ宦官はそれなりに有能で、この時代は皇帝が宦官を使いこなせたのですが。有能で良識のある宦官ばかりとは限りません。宣徳帝の時代になると

領土経営をリストラ

宣徳帝は永楽帝が行った無理な遠征はしませんでした。

満州地方、大越(ベトナム)に配置していた軍を撤退。北の国境は万里の長城までにしました。

永楽帝時代よりも領土を狭めています。明は広がった領土を維持できるだけの軍事力も財力もなかったのです。領土拡大はしないというのは父・洪熙帝の決断でしたが。

宣徳帝は父の方針を受け継ぎました。でも異民族に攻められたときは果敢に応戦しています。

バランスのとれた領土経営

その一方で父・洪熙帝が中止した鄭和の航海を再開しました。1430年から1433年まで行われました。東南アジアからインド、メッカまで行きました。朝貢国を増やすのが主な目的です。

宣徳帝が行ったのは、永楽時代のような無理で強引な領土拡大でもなく、洪熙時代の鎖国体制のような守り一辺倒でもない。その中間をとって国力にふさわしい範囲でバランスをとろうとしたといわれます。

宣徳10年(1435年)。死去。享年36.

病弱だと言われた父・洪熙帝よりも10歳も短い生涯でした。

負の遺産も残す

宣徳帝の時代は洪熙帝とともに「仁宣の治」と呼ばれ。明朝の最盛期といわれます。

その一方で皇帝の独裁はますます進み。文化的には停滞。宦官たちが力を持ちます。

明朝といえば宦官の横暴が有名です。それを初めたのが永楽帝で決定づけたのは宣徳帝といえるかもしれません。

力を持ちすぎた宦官の弊害は次の正統帝の時代に大きな問題をひきおこします。

テレビドラマ

 大明皇妃 2019年、中国 演:朱亜文
 尚食 2022年、中国 演:許凱

 

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