明孝宗 弘治帝(こうちてい) 朱祐樘(しゅ・ゆうとう)は明の11代皇帝。
弘治帝は明の「中興の祖」とされます。衰えていた明を復活させたというわけです。
正統帝の時代以降、オイラトに敗北したり宦官の横暴や政治の腐敗で衰退に向かっていました。それをある程度食い止めた功績があります。
そのため明時代から現代まで中国の学者は弘治帝をベタ褒めします。
史実の弘治帝はどんな人物だったのか紹介します。
明孝宗 弘治帝の史実
いつの時代の人?
生年月日:1470年7月30日
没年月日:1505年6月8日
姓 :朱(しゅ)
名称:祐樘(ゆうとう)
「樘」は「木」偏に「堂」
国:明
地位:皇太子→皇帝
呼称:弘治帝(こうちてい)
廟号:孝宗
父: 成化帝
母: 紀淑妃
正室: 孝康敬皇后張氏
子供:
正徳帝 朱厚㷖
蔚悼王 朱厚煒
太康公主 朱秀栄
彼は明朝の10代皇帝です
日本では室町時代になります。
おいたち
朱祐樘(しゅ・ゆうとう)は成化6年(1470年)に誕生。
父は9代皇帝・ 成化帝
母は紀淑妃。淑妃は死後贈られた称号。
紀淑妃はヤオ族出身。ヤオ族の村が明軍に襲撃され村や家族を殺され、捕虜になって北京につれてこられ紀姓を与えられました。
紀氏は宮中で女官になり書庫で働いていたところを成化帝に見初められて朱祐樘を出産しました。
成化帝の三男。
紀淑妃にとっては初子になります。
「明実録」によれば。
紀氏は病気のため西宮で出産。頭蓋骨が龍のように盛り上がっていました。朱祐樘は笑顔ですが寡黙で用心深い皇子でした。
「明史」によれば。
紀氏は成化帝は万貴妃を非常に寵愛していました。万貴妃は非常に嫉妬深く、妊娠した側室を堕胎させていたといいます。紀氏は万貴妃を恐れ、妊娠を隠そうとしました。
病気と偽って安楽堂で朱祐樘(しゅ・ゆうとう)を出産。万貴妃を恐れたため、朱祐樘の存在は隠されていました。
朱祐樘は内安楽堂の近く西宮にいた廃后呉によって密かに育てられたと言います。
成化帝の次男・悼恭太子の死後。朱祐樘の存在が成化帝に知らされ、成化帝は大喜びで迎えました。紀氏は病気療養のため西宮で暮らしました。朱祐樘は万貴妃に育てられました。
商輅たち臣下も大喜び。皇太子にするように進言。成化帝もそのつもりです。
成化11年。朱祐樘は皇太子になりました。
万貴妃は朱祐樘を非常にかわいがっていましたが。朱祐樘は生母の紀妃となかなか会えません。そこで商輅が「母と子が共に暮らせるように」と進言しました。母の紀氏は紀妃として永壽宮に迎え入れられました。
しかし1ヶ月後、紀妃は病状が悪化して死亡。
紀妃の死後、周太后によって育てられました。周太后は皇太子の健康や食事に気を使ったと言います。
「明史・紀淑妃伝」には万貴妃は皇太子を疎ましく思い毒殺しようとした。毒殺が失敗して怒りのあまり死んだ。万貴妃は次々に側室を堕胎したとも書かれていますが。と書かれていますが。
むしろ万貴妃は皇太子を自分の子として育てようとしたのではないでしょうか。
すでに清朝時代には「明史」に書かれている万貴妃の記述には疑惑がもたれていて。乾隆帝も「野史(噂話・作り話)の内容だ、不合理で信用できない」と「明史」の内容を否定し、万一族の横暴に対する不満が万貴妃への誹謗中傷につながったと述べています。
弘治帝の誕生から即位までの記事はよくわからない部分が多いです。
弘治帝の時代
皇帝に即位
成化23(1469年)。成化帝が死去。
朱祐樘(しゅ・ゆうとう)が即位しました。
元号が 弘治(こうち)に変わりました。
弘治帝の即位直後。万貴妃の称号を取り消すようにとか、紀妃の医師を取り調べるようにとか、万氏の家族を処刑するように進言する者がいました。
でも弘治帝は不正に蓄財していた万氏の家族から資産を没収はしましたが。万貴妃への処分はしていません。
そのため弘治帝は「母を殺した仇を許した慈悲深い皇帝」と言われます。
もし万貴妃が紀淑妃を殺害したと確信が持てるなら。弘治帝は万貴妃の墓を天寿山(明朝皇族の墓)から出して遺体を晒しものにしていたでしょう。儒教の教育を受けて育った皇帝が親の仇に慈悲をかけるなんてありえません。そんなことを許したら「親不孝者」と批判を浴びます。儒教では「不孝」は最大の悪ですから、そんな「親不孝者」を儒学者が「慈悲深い人」と褒めることは考えられません。
弘治帝が万貴妃を罰しなかったのは慈悲などではなく、客観的に罰する理由が見当たらないというだけでしょう。
弘治中興
人事
弘治帝が即位後にまず行ったのは人事の一新です。
成化時代に政治の中心になっていた万安、劉珝、劉吉を解任。彼らは「紙糊三閣老」といわれて評判が悪いです。成化帝の側近たちは解雇。
成化帝が採用していた道士や僧を追放。中心的存在だった李孜省・継暁は投獄、死罪にしました。
成化帝は道教や儀式に凝っていたのでそれに必要な導師や僧を採用。彼らは政治をするわけでもないのに、皇帝の趣味のために多額の費用を負担するのはムダ。というわけです。
成化時代に力を持っていた宦官の権力を縮小。政治から宦官を追放。宦官勢力が引き起こしていた弾圧や陰謀が減りました。
こうして3000人近くがリストラされました。
逆に、王恕、懷恩、馬文升たち官吏。徐溥、劉健、謝遷、李東陽など有能な人材の採用に努力しました。昇進は実績重視で行い。弘治時代には明の中期を支える有能な人材が登場したとされます。
司法
司法行政を重視。宮廷の各部門に重犯罪者の記録や刑事事件の処理を丁寧に行うよう命じました。 洪志13年(1500年)には「問答無用条例」を作り。 1502年、「大明律」を編纂しました。
治水
弘治2年(1489)。開封付近で黄河が決壊。あまりにもの被害の大きさに開封を移転する案まで出ました。弘治帝は25万人を動員して堤防を修理。その後も何度か黄河が決壊。そのたびに工事を行ったり橋をかけ直したりしました。
弘治6年(1493年)。大規模な修理を行いました。360里の長い堤防を造り、その後20年あまりの間、黄河の反乱を抑え込むことに成功しました。
被災した地域にはその都度、減税を行いました。
経済
明の税収は洪武、永楽、宣徳時代がピーク。正統時代から後は激減。景泰、天順、成化時代には2500万石に落ち込んでいました。弘治時代に2700万石に増加。大きな戦争や災害がなくて人口が増えて生産が上がったからです。減税を何度も行ったので人口の伸びほどには税収は増えませんでした。結局、収入の伸び以上に支出が増え。弘治15年には朝廷の財政は赤字。
弘治帝は改善方法を議論するように臣下に命令しました。いろいろ改善策を出しましたが、皇帝を中心にした権力者の利権に関係するものが多くとくに改善はされませんでした。
国防
正統時代にオイラトに負けて以来、明は軍事力が低いまま。首都の軍隊は疲弊し、国境の守りは甘くなっていました。
弘治帝は軍を再建するため馬文成たちを採用、軍の再建と国境の守りをある程度は改善させました。
ところが兵士に重労働をさせたため脱走する者が相次ぎ。国境の警備がおろそかになってしまいます。
小さな改善はあったものの、全体としては防衛力の低下はあまり改善せず衰退を止めることはできませんでした。
こうしてみると。「中興の祖」とか言われながら弘治帝はあまりたいしたことはしていないのがわかります。
宦官の弊害を減らし導師や僧を追放しました。臣下が政治に参加しやすい環境を作りました。それはよい判断でした。
薬の誤用で死亡?
弘治18年(1505年)。風寒(風邪と寒気)の治療で飲んだ薬が原因で鼻血が止まらなくなり危篤状態になり。そのまま死亡したといいます。
一人息子の朱厚照(正徳帝)があとを継ぎました。
評価高すぎ?
弘治帝は衰退していた明を盛り返した名君とされます。
ところが歴史家・王其榘(1989年)は「弘治帝の「中興」は評判が高すぎる。弘治帝は成化時代の問題の一部を取り除いただけ。明が抱える社会・政治・経済的な問題の根本的な解決にはなっていない」と指摘。
事実、弘治帝の死後。明が抱える問題が一気に吹き出して明は滅亡に向かいます。弘治帝なりに頑張ったかもしれません。
明の衰退を一時的に遅らせることはできても、改善はできなかったようです。
テレビドラマ
明朝皇伝 〜大王への道〜 2018年、中国 演:劉奕君
成化十四年 2019年、中国 演:劉世傑 役名:皇太子
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