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斉王 李祐 厳しさに耐えられず唐太宗に反乱を起こした皇子

唐朝 5.1 隋唐の皇帝・皇子

斉王 李祐(り・ゆう)は唐の皇子。

2代皇帝 太宗 李世民の五男です。

母は殷徳妃。

唐朝では何度か皇子の反乱が起こりました。李祐も反乱を起こした皇子の一人です。父の李世民も反乱を起こした皇子の一人でしたが。李祐は父と違って反乱は大失敗でした。

李祐は荒くれ者を集めて徒党をくんでいました。皇帝から派遣された権萬紀たちが何度も注意しましたが李祐は言うことを聞きません。権萬紀はかなり厳しい側近だったようです。

李祐は皇帝からも叱られ権萬紀を逆恨み。権萬紀を殺害してしまいます。皇帝から派遣された側近を殺害した李祐は後戻りできなくなって反乱を起こしてしまいます。

史実の斉王 李恪はどんな人物だったのか紹介します。

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呉王 李恪の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:643年
享年:不明

姓 :李(り)
名称:祐(ゆう)

国:唐
称号:斉王→庶人

父:唐太宗 李世民
母:陰徳妃

妻:京兆韋氏

子供:

彼は唐の第2代皇帝・太宗 李世民の息子。

日本では飛鳥時代になります。

唐高祖 李淵の時代

武徳元年(619年)。誕生。

祖父は唐の初代皇帝 李淵。

父の李世民は当時は秦王でした。

李祐は李世民の五男。
母・陰氏にとっては長男です。

武徳8(625年)。李祐は「宜陽郡王」になりました。

その後、「楚王」になりました。

626年。祖父 高祖 李淵が死去。
父の李世民が皇帝(太宗)になりました。
母の陰死は陰徳妃になりました。

唐太宗 李世民の時代

貞観2年(628年)。「燕王」になり「豳州都督」に任命されました。

貞観10年(636年)。「斉王」になり「斉州都督」に任命されました。

翌年に斉州に赴任。

貞観12年(638年)。病気療養のため長安に戻りました。

母方の伯父・陰弘智は太宗の死後に争いがおこることを心配、身を守るため私兵を集めました。李祐に燕弘信を推薦して側近につけさせました。

641年、李祐は斉州に帰りました。

李祐は狩りが大好きで、荒くれ者たちと親しくなりました。昝君謨、梁猛彪は馬に乗っての弓術が得意で李祐に気に入られました。

太宗は長史(秘書長、お目付け役)の薛大鼎が役目を果たしていないと思って権萬紀に交代させました。

権萬紀が繰り返し注意しても李祐はやめようとしません。権萬紀は昝君謨と梁猛彪を解雇しましたが、李祐はすぐに呼び戻します。

李祐がなかなかやめようとしないのを知った唐太宗は息子に手紙を出して説教しました。権萬紀は処分されるのを恐れ、自分が都に行って皇帝に説明するので都に行かせてほしいと言いました。

李祐は権萬紀を長安に向かわせました。

太宗に謁見した権萬紀は、怒りをおさめて権萬紀の苦労を労いました。一方、李祐には今までの行いを叱責する手紙を出しました。

李祐は自分は怒られたのに権萬紀は褒められたと聞き、権萬紀は裏切り者だと思いました。

太宗は韋文振の仕事ぶりを高く評価していたので李祐王府の軍政官に任命しました。韋文振は李祐を何度も諌めたので、李祐は韋文振を嫌いになります。

権萬紀のしつけはますます厳しくなり昝君謨、梁猛彪を解雇。

李祐と昝君謨は権萬紀を恨んで殺害しようとしました。でも事前に計画が漏れて権萬紀は昝君謨を投獄、朝廷に報告しました。

太宗は刑部尚書の劉德威に斉州に向かうように命令。劉德威が調査すると報告が事実だったことがわかったので、李祐と権萬紀を長安に呼んで説明させるように命令しました。権萬紀は先に長安に向かいました。でも李祐は父に怒られるのを恐れて燕弘亮と20騎の騎兵を送って権萬紀を殺害させました。

皇帝から派遣されたお目付け役を殺してしまったのでもう後にはひけません。昝君謨たちは李祐に挙兵するように説得しました。

李祐の反乱

貞観17年(643年)3月。李祐は都の15歳以上の男子をすべて集め。上柱国(上級の将軍)に勝手に任命。さらに兵を集め、部下たちに勝手に官職を与えました。

太宗は息子が反乱を起こしたと聞いてショックを受けました。太宗は兵部尚書 李勣に対して各地の兵を集めさせ、劉徳威と協力して鎮圧するように命令しました。そして太宗は李祐に非難する手紙を書いて涙したと言います。

李祐は毎日、燕弘亮やその妻たちと宴会を開き彼らの支持を集めようとしました。

斉州は長安から7~800km離れています。李勣の軍が斉州に到着するにはまだ時がかかりそうでした。

でも、李祐側の兵はすでに逃げ出す者が相次いでいました。

斉州兵曹の杜行敏は「官軍が到着したら自分たちも賊軍として討たれるかもしれない」と考え、官軍が到着する前に李祐を討とうと決定。1000人近い兵も賛成しました。

3月30日夜。杜行敏たちは李祐を襲撃、塀を壊して屋敷に攻撃を仕掛けました。李祐と燕弘亮たちは鎧を来て弓矢で応戦しました。

杜行敏は「あなたは皇帝の息子だが、今は賊軍だ。賊軍は討伐する」と言いました。

李祐は「門を開けるのが嫌なのではなく、燕弘亮たち兄弟が心配だ」というと杜行敏は「危害を加えないことを約束します」と応えました。すると李祐たちは投降しました。

このとき何者かが燕弘亮を捕まえて殺害しました。杜興民は李祐を捕らえて投獄しました。その後、李祐は長安に送られました。

李祐は反乱を起こしたものの、皇帝が派遣した鎮圧軍ではなく。地元の兵たちに鎮圧されてしまったのです。

貞観17年(643年)4月6日。李祐は「謀反の罪」で庶人に落とされ賜死になりました。

10月15日。「國公」の格式で埋葬されました。

鎮圧に功績のあった杜行敏は巴州刺史になり。「南陽郡公」の爵位が与えられました。

李祐の反乱は失敗しました。ところが取り調べの最中に太子・李承乾も兵を集めていることがわかり。最終的に太子・李承乾の廃位に繋がります。

ドラマ

武則天  2015年、中国  演:薛詠煜

大唐流流 2021年、中国 演:昌隆 役名:趙王
 趙王はあまりに頑固な性格なので皇帝は錢文景を派遣して教育しようとしました。しかし趙王は皇帝に逆らって錢文景を殺害。反乱を起こして鎮圧されます。

 

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コメント

  1. 渡邊誠 より:

    高麗の慣習を重視する、重臣からしたら王位は円明国師なのにそんなに簡単に慣習を破れるものなのですか?

    • フミヤ Fumiya より:

      高麗仁宗は睿宗の第一王子です。慣習からいっても問題ありません。跡継ぎがいるのに、なぜ今さら弟の円明国師を即位させないといけないのか?という根拠が希薄です。しかも円明国師は出家しましたから、儒教を信じる重臣たちも支持しにくい。円明国師にこだわる理由が全くありませんね。

      • 渡邊誠 より:

        定宗から睿宗の代までは、王に息子が居ても息子が若年だったら、王位は王の弟が王位を継承してきましたから、それを変えるのは、重臣からは反対されなかったんですか?

        • 渡邊誠 より:

          間違えました。正しくは恵宗から睿宗の代までは、王に息子が居ても、息子が若年だったら、弟が王位を継承しました。

          • フミヤ Fumiya より:

            高麗初期の豪族連合の気質が残り「強いものが権力を握る」時代のできごとは参考になりませんね。
            王朝創設期と安定期には相続方法も変わるものでしょう。

      • 渡邊誠 より:

        それと、第5代王の景宗には息子が居たけど、太子は当時、1歳だったから、妹の夫が王位を継承しました。靖宗には息子が何人も居たにも関わらず王位は弟が継承しました。王に息子が居ても王になるとは限らないのが高麗の王室の慣習だったから、いくら、太子の外祖父だからといって、慣習を変えるのは重臣達が反発すると思いますけど。それよりも、円明国師が王位を継承した後に三女を皇后として迎えさせる方が良さそうですけど。

        • フミヤ Fumiya より:

          この時代は「長子相続法」が成立しています。息子が継ぐのが正しいやり方です。法に従えば重臣たちも反対はできません。
          「弟が継いだ前例がある」のと「弟が継がないといないルールがある」のは違います。そこはわけて考えないといけませんね。

      • 渡邊誠 より:

        李資謙がしたことは高麗の王室の慣習を無視してますよね?

        • フミヤ Fumiya より:

          李資謙がしたことは法に基づいた方法なので問題ありません。李資謙が好きか嫌いかという問題とは別です。

      • 渡邊誠 より:

        本来だったら仁宗は、年齢的に王位を継げれないですよね?なのに外祖父の野心で、王位を継承できたんですよね?

        • フミヤ Fumiya より:

          李資謙にも野心はありますが。もっと大きなのは父の睿宗の希望ですよね。仁宗即位前の李資謙個人の力というより、外戚勢力の仁川李氏の力が大きかったです。力のある外戚勢力がどれほどやっかいかは朝鮮半島の歴史をみるとわかると思います。仁川李氏は儒教を重んじる重臣たちを牽制するために仏教勢力も取り込みました。李資謙個人の力ではなく様々な人達の思惑が働いています。しかも「長子相続法」が存在するので仁宗に正当性があります。他の勢力も反対はしにくいですね。

      • 渡邊誠 より:

        献宗は、11歳の年齢で王位を継承しましたから、反乱が起きました。
        それは、王に息子が居ても、王子が若年だったら、弟が、王位を継承すると言うのが高麗の王室の慣習だったからです。

        • フミヤ Fumiya より:

          この時代に「弟が継ぐ慣習」はありません「法」が優先です。
          それにもかかわらず野心家の弟が前例を口実に王位を奪うのは謀反の正当化にすぎません。
          それだと高麗は無法国家と認めることになります。

      • 渡邊誠 より:

        睿宗の王子が13歳だったから、いくら出家したとはいえ、円明国師は、十分王位を継承できる資格は、ありますよね。

        • フミヤ Fumiya より:

          長子相続法が存在するので睿宗の子供が絶えないと無理でしょう。仏教勢力も仁川李氏に味方していますから円明国師が王になる可能性は限りなく低いです。

          あと、お願いです。
          ここは唐朝のページです。高麗とは関係ありません。
          高麗時代の質問は高麗関係のページにお願いします。メールでも受け付けてます。
          この人物のページが欲しいというリクエストもOK
          すぐには作れませんけれど。気長にお待ち下さい。
          (リクエストはコメント欄には表示されません)

  2. 渡邊誠 より:

    李資謙に王を決める決定権はあったんですか?

    • フミヤ Fumiya より:

      李資謙個人の力というより外戚勢力の仁川李氏の力ですね。結局、政治は派閥の力関係で決まりますから。
      平清盛や藤原道長に天皇を決める決定権があるのかと言ってるのと同じですね。

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