金左根は李氏朝鮮後期の政治家。
安東金氏を中心にした勢道政治を政治を行った人物です。
純祖、憲宗、哲宗、高宗の時代を生き抜き安東金氏の全盛期をつくりました。でも一族のことしか考えない政治を行い。賄賂がはびこり政治は腐敗しました。民衆は搾取に苦しみ各地で反乱が起こります。
対立する王族を排除する一方で、没落王族の興宣君は援助していました。
その興宣君の息子が高宗になります。
史実の金左根はどんな人物だったのか紹介します。
金左根の史実
いつの時代の人?
生年月日:1797年
没年月日:1869年4月25日
名前:金 左根(キム・ジャグン、きん・さこん)
本貫:安東金氏
號:荷屋
父:金祖淳(キム・ジョスン)
母:清松沈氏
兄:金逌根
兄:金元根
妹:純元王后(純祖の正妃)
妻:羅州夫人(羅閤)
養子:金炳冀(キム·ビョンギ)
彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に23代純祖、憲宗、哲宗、26代 高宗の時代です。
日本では幕末~明治時代になります。
おいたち
1797年に誕生。
父は金祖淳(キム・ジョスン)。
正祖と純祖に仕えた老論派の重臣。安東金氏が勢道政治を行う基礎を作った人物です。
姉は純祖の正室・純元王后。
1825年、父である金朝順の推薦で無品官職の「副率」になりました。
父の金朝順が死亡。
1834年には尚医院の瞻正に昇進。
1838年に科挙の兵科に合格。その後、数々の役職を経験しました。
哲宗の時代
1849年。哲宗が即位。
哲宗は19歳でしたが、江華島で暮らしていたので政治の経験は全くありません。純元大妃が垂簾聴政を行いました。
このころ安東金氏は豊壤趙氏と争っていました。ところが1850年に豊壤趙氏の大物、趙寅永が死亡。ライバルがいなくなったので安東金氏の力はますますす強くなりました。
金左根は大王大妃金氏(純元王后)の兄の立場を利用。禮曹判書、刑曹判書、訓錬大將、工曹判書、戸曹判書などを歴任。最終的に領議政になりました。
哲宗は何をするにも金左根の言いなりでした。国王の権限で決定するときも「金左根は承知しておるのか?」と臣下たちに尋ねるほどでした。
1851年。安東金氏の一族から金汶根の娘を哲宗の正室にしました。
朝廷の要職は安東金氏や安東金氏に従う者たちで独占されました。国中で賄賂がはびこり役人の人事にも不正が行われました。朝鮮はもともと賄賂が多い国ですが、勢道政治の時代はさらに多くなりました。勢いのある一族と親しくならないと出世できないのです。搾取された農民たちはますます疲弊していきます。
しかし金左根の権力が強くなりすぎると安東金氏の中にも不満を持つものが出ます。安東金氏内部にも対立が起こります。とくに金左根に対抗心をもったのが金汶根でした。
1853年から1863年まで永義亭に3度も補職され、
1857年。大王大妃金氏が死去。安東金氏にとっては大きなダメージでした。とくに金左根への影響は大きく、金左根は断崖を起こされ左遷されてしまいます。しかし金左根は復帰しました。
1862年。苦しめられていた民衆の怒りが爆発。慶尚道で反乱が起こるとその後、朝鮮各地で反乱が続発。反乱を鎮圧するため金左根は権限を集中て鎮圧しました。この反乱を壬戌民乱といいます。
王族の排除
反乱鎮圧後。金左根は次に邪魔になりそうな王族の排除をはじめました。
王族の李夏銓は王位後継者として有力だと思われていた人物ですが。安東金氏には批判的でした。そこで金左根は李夏銓を担いだ謀反を捏造。
李夏銓の謀反を信じた哲宗は李夏銓に自害を命令。
金左根は安東金氏の敵になりそうな王族を排除しました。
興宣君との付き合い
没落王族の興宣君はこのころ貧しい生活をしていました。
興宣君が彼の邸宅を訪れると金銭の援助をしました。立場が苦しい彼が石破蘭として知られている蘭花を持ってくれば、それを受け取って所定の金額を支払った。
興宣君を嫌う両班はいましたが、金左根は息子の金秉基(キム·ビョンギ)とともに興宣君には親切にしていました。
金左根は興宣君が大した事のない人物だと思っていたのです。
後継者問題
ところが、金左根のいいなりになっていた哲宗が跡継ぎをきめないまま病に倒れます。
国王が後継者を決めないまま死亡すると、最長老格の大妃に次の王の任命権が与えられます。
このとき最年長だったのは大妃趙氏でした。大妃趙氏は安東金氏の政敵・豊壤趙氏の出身です。
大妃趙氏が任命したのは興宣君の次男 李命福でした。
高宗の時代
1863年。李命福は朝鮮王に即位。高宗の誕生です。
高宗の父・興宣君は「興宣大院君」という地位につきました。
高宗はまだ12歳だったので大妃趙氏が垂簾聴政をすることになりました。でも実際に権力を持ち政治を手動したのは興宣大院君でした。
金左根と一族の金興根は興宣大院君が執政することに反対しました。でも趙大妃は金佐根たちの反発を押し切って興宣大院君の政治参加を認めました。
1864年。金左根は辞職。でも元の大臣の資格で政事に参加し、政治諮問のような立場になりました。
興宣大院君は勢道政治を苦々しく思っていて、力をもっていた安東金氏を粛清していきました。でも金左根と息子の金秉基(キム·ビョンギ)は没落王族だった興宣大院君を助けていたので、他の安東金氏一族が粛清された時も没落せず元老待遇を受けました。
1864年。哲宗実録編纂に参加。実録総裁官として『哲宗実録』の編纂を主管、指揮しました。
1868年、大院君によって三軍府が復活、設置されると三軍府領事になりました。
1869年。死亡。享年73。
死後「忠益」の諡号が追贈されました。
テレビドラマ
明成皇后 2001年KBS 演:ソン・ジェホ
朝鮮ガンマン 2014年KBS2 演:ジェ・ジョンウォン 役名:金左栄
風と雲と碑 2020年TV朝鮮 演:シャ・グアンス
哲仁王后 2020年tvN 演:キム・テウ
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