神貞王后 趙氏(趙大妃) は李氏朝鮮後期の王族。
23代国王 純祖の息子・孝明世子の妃です。
神貞王后と呼ばれていますが王妃になったことはありません。夫の孝明世子が王にならずに死亡したからです。でも息子の李奐が王(憲宗)になり。大妃として影響力をもちました。
哲宗の時代も影響力を持っていました。
豊壤趙氏が勢道政治で力をもつ事ができたのも神貞王后 趙氏 がいたおかげです。
史実の神貞王后 趙氏はどんな人物だったのか紹介します。
神貞王后 趙氏の史実
いつの時代の人?
生年月日:1809年1月21日
没年月日:1890年6月4日
姓:趙(チョ)
名:不明
称号:神貞王后
本貫:豊壤趙氏
父:趙万永
母:恩津宋氏
夫:孝明世子
子供:憲宗
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の23代純祖、憲宗、哲宗、26代 高宗時代です。
日本では江戸時代~明治の人になります。
おいたち
1808年(純祖8年)。 趙氏は豆毛坊で生まれました。家は名門・豊壤趙(プンヤン・チョ)氏
父は趙万永(チョ・マンヨン)。暗行御史として実績を積み重ねました。
曽祖父は英祖の時代に朝鮮通信使として日本に行き、朝鮮に初めてサツマイモをもたらした趙曮(チョ・アム)。
父方の曾祖母は豊山洪氏。貞明公主(ジョンミョンコンジュ)の子孫で、恵慶宮洪氏の親戚です。
母は宋氏
世子嬪になる
1819年(純祖19年)。純祖の王世子だった孝明世子と結婚。世子嬪になりました。
毎日、孝懿王后(正祖の正室)や純元王后(純祖の正室)に挨拶に行き、二人から孝行な娘だと褒められていました。
1827年(純祖27年)。昌慶宮で長男・李奐(イ・ファン)を出産。
このころ朝廷では純元王后の実家・安東金氏が力をもっていました。純祖は安東金氏の力を抑えるため、有力な家門の豊壤趙氏を世子嬪にもつ孝明世子に代理聴政を行わせました。孝明世子は豊壤趙氏から人材を採用。
世子嬪趙氏の父・趙万永やその弟・趙寅永などを要職につけていきます。豊壤趙氏が孝明世子の味方になり安東金氏に対抗しました。弾劾を起こして次々に安東金氏を追放していきました。
1830年。ところが夫の孝明世子が吐血して倒れ。若くして死亡。
ふたたび安東金氏の発言力が大きくなりました。
純祖は李奐を世孫に指名。趙万永・趙寅永兄弟に世孫を守るように指示しました。
豊壤趙氏の勢道政治
1834年。 純祖が死去。子の憲宗がわずか7歳で即位。趙氏は王大妃になりました。「孝裕王大妃」の称号が与えられました。
王が幼いので純祖の正室 大王大妃 金氏(純元王后)が垂簾聴政を行いました。
趙万永の弟・趙寅永が領議政になりました。しかし安東金氏の影響力は強く。豊壤趙氏は徐々におされていきます。
1837年。大王大妃 金氏はさらに安東金氏を強くするため一族からから憲宗の正室(孝顕王后)を迎えました。
1840年。憲宗が15歳になり。大王大妃 金氏が垂簾聴政をやめて憲宗の親政がはじまりました。大王大妃 金氏の発言力が落ちて安東金氏の力も弱まります。
1843年。孝顕王后 金氏が子供がいないまま死去。
趙寅永たちは南陽洪氏から新しい王妃(孝定王后 洪氏)を迎えました。
1846年(憲宗12)。大妃趙氏の父・趙万永が死亡。
1849年。憲宗が22歳で死去。憲宗には跡継ぎがいません。
憲宗の死後、大王大妃 金氏は臣下たちと相談して江華島に流されていた李元範を呼び戻しました。
趙寅永たちもまだ跡継ぎ候補を確保できていません。有力な外戚のついていない李元範なら問題ないだろうと考え、李元範が王になるのを認めました。
大王大妃 金氏は李元範を自分と純祖の養子にして王に即位させました。哲宗の誕生です。
哲宗の時代
哲宗は19歳でしたが島で生まれ育ち政治経験はありません。大王大妃 金氏が垂簾聴政を始めました。
哲宗はその3年後に親政をはじめました。でも実権は豊壤趙氏と安東金氏に握られたままだでした。
1850年。趙寅永が死亡。
1851年。安東金氏から哲宗の妃(明純王后)が選ばれました。
このころになると豊壤趙氏には金左根たち安東金氏に対抗できる大物がいません。安東金氏の天下です。
1857年(哲宗8年)。大王大妃 金氏が死去。趙大妃が後宮で最高の地位・大王大妃になりました。
哲宗が病に倒れました哲宗にも跡継ぎがいません。
1862年。豊壤趙氏が後継者に支持していた慶原君 李夏銓(イ・ハジョン)が謀反の罪で処刑されました。安東金氏に陥れられたのです。
大王大妃 趙氏は安東金氏の影響がない王位後継者を探さなくてはいけません。
甥の趙寧夏(チョ・ヨンハ)の紹介で興宣君 李昰応(イ・ハウン)と知り合いました。興宣君と相談を重ね、興宣君の息子・命福(後の高宗)を自身と孝明世子の養子にして後継者にすることで話がまとまりました。
1863年。哲宗が死去。趙大妃は李命福に「翼成君」に称号を与え、その後、王位につけました。高宗の誕生です。
高宗の時代
垂簾聴政を行う
趙大王大妃は高宗即位後は垂簾聴政を行うことになりました。興宣大院君が大妃の補佐という形で政治参加しました。
ところが興宣大院君は趙大妃のいいなりになる人物ではありませんでした。興宣大院君は勢道政治を憎んでいて次々に勢道家の者から官職を奪って追放します。
大王大妃 趙氏は高宗の妃を豊壌趙氏から出そうとしましたが興宣大院君に反対されて失敗しました。
1866年(高宗3年)。高宗は興宣大院君の妻の親族の閔氏(明成王后)と結婚。
興宣大院君は大王大妃 趙氏に垂簾聴政から退くように要求。大王大妃 趙氏は退いて興宣大院君に全権を委任しました。
興宣大院君は貧しい暮らしをして両班たちからバカにされていました。大王大妃 趙氏も興宣大院君を甘く見ていたのかもしれません。ところが興宣大院君は非常な野心家で頭も良かったのです。
打倒興宣大院君のため両班が協力
大王大妃 趙氏は甥の趙成夏と趙寧夏を採用。彼らは明成王后 閔氏の親族の閔升鎬、閔謙鎬と協力。金左根の養子・金炳冀とも協力。皮肉なことにかつて争った勢道家が協力して興宣大院君に対抗することになりました。
興宣大院君は改革を急ぎました。でも両班たちは不満でした。両班たちは団結して興宣大院君を排除しようとします。
1873年(高宗10年)。両班たちは団結し興宣大院君を批判。両班たちの反対に抵抗しきれずついに興宣大院君は引退。高宗の親政がはじまりました。(癸酉政変)
大王大妃 趙氏とその派閥は宮中を支配下におき、趙寧夏は兵権を確保しました。
興宣大院君の粛清で安東金氏は衰退。代わって力をつけたのが驪興閔氏。豊壤趙氏もまだ力は残っています。
驪興閔氏、豊壤趙氏よる政治がはじまりました。
1874年(高宗11年)。高宗の次男・李坧が誕生。
1875年(高宗12年)。大王大妃 趙氏が主導権をとって清に働きかけ李坧を世子にしました。
開化派と事大党の対立
1881年。左参賛の趙成夏が死亡。豊壤趙氏の力は落ちて政治の主導権をとれなくなっていました。驪興閔氏派がさらに力をつけました。このころ日本の明治維新を見習って西洋の考え方を取り入れようとする開化派の動きが活発になりました。
しかし古い体制を維持しようとする豊壤趙氏は驪興閔氏や他の両班とともに事大党を作り、開化派と対立しました。
1884年(高宗21年)。清の内政干渉に反対する金玉均たち開化派が反乱を起こして親清派が粛清され、趙寧夏、閔台鎬たち事大党の重臣が死亡しました。
しかし事大党の要請で清が軍事介入。開化派の反乱はわずか3日で失敗。清にいた興宣大院君が清の将軍・袁世凱(えん・せいがい)とともに戻ってきました。(甲申政変)。これにより朝鮮の自力での近代化が消滅。清の支配が始まります。
朝鮮はこのあと更に混乱するのですが。趙寧夏たちを失った豊壤趙氏は政治的な力を失っていたので大王大妃 趙氏はただ見守るしかできません。
1890年4月17日。景福宮興福殿で死去。享年83。
テレビドラマ
明成皇后 2001年、KBS 演:キム・ヨンリム
Dr. JIN 2012年、MBC 演:チョン・ヘソン
雲が描いた月明り 2016年、KBS 演:チェ・スビン
風と雲と雨 2020年、TV朝鮮 演:キム・ボヨン
哲仁王后 2020年、tvN 演:チョ・ヨニ
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