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朝鮮 正祖 李祘(イ サン)の王妃と側室

正祖の王妃側室 2 李氏朝鮮の妃・側室

 正祖 李祘は李氏朝鮮王朝の22代国王。

朝鮮史上で有数の名君とされます。 日本でも「イ・サン」が放送され知られるようになりました。父が米櫃で餓死したあと王世孫(王位後継者)なったり、暗殺されそうになったりするなど、ドラマチックな生涯でも知られます。

そこで正祖の正室と側室をリストにしてみました。

ちなみに
正祖・李祘の生没年は
生年:1752年(英祖28年)
没年:1800年(正祖24年)
享年49(数え歳)です。

参考にしてください。

 

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正室

孝懿(ヒョイ)王后 金氏

生年 1753年(英祖29年)
没年 1821年(純祖21年)
享年 69歳

地位:世孫嬪→王妃

粛宗の生母・明聖王后 金氏の親戚。世孫時代からの正室。若い頃に天然痘を患い、世孫嬪になるのは中止かと思われましたが「ぜひ清風 金氏から世孫嬪の正室を」という英祖の強い願いで実現しました。

和緩翁主からはいじめられていたようですが、世孫嬪 金氏は耐えました。

高い知性をもつ女性で親孝行でもあったので王妃としての宮中での評判は高かったようです。でも子供には恵まれません。

重臣や大妃からも跡継ぎ誕生をと言われつらい立場だったようです。

孝懿王后の詳しい説明

 

側室

元嬪(ウォンビン)洪氏

政争の材料になって若くして死亡

生年 1766年(英祖42年)
没年 1679年(正祖3年)
享年 14歳

洪国栄(ホングギョン)の妹。兄が正祖の信頼を集める側近だったので側室になりました。入宮していきなり嬪になりました。でも1年で病死。その後も、元嬪の死を巡って洪国栄が王妃を疑ったり問題が起こります。

元嬪 洪氏本人を批判した記録はないので、印象の悪い人ではなかったのでしょう。

元嬪洪氏の詳しい説明はこちら

和嬪(ファビン)尹氏

生年 1765年(英祖41年)
没年 1824年(純祖24年)
享年 60歳

跡継ぎを望む王大妃の命令で側室になりました。
入宮していきなり嬪になりました。
入宮してまもなく妊娠したと診断され出産をサポートする産室庁までつくられましたが。出産や流産した記録はありません。想像妊娠だったといわれます。

男子を出産した宜嬪 成氏を妬んで大声で呪いの言葉を口にしたといいます。そのせいで宮殿に押し込められたこともありましたが、正祖の側室の中では一番長生きしました。

和嬪尹氏の詳しい説明はこちら

宜嬪(ウィビン)成氏

子供の頃から知っていた?正祖が最も愛した側室

生年 1753年(英祖29年)
没年 1786年(正祖10年)
享年 34歳

地位:宮女→尚儀→昭容→宜嬪

子:
庶長子 文孝世子 1782~1786年
庶長女 翁主 1784年~1784年
不明  妊娠中に死亡。

父は洪鳳漢(ホン・ボンハン)の使用人。その縁で10歳で宮女になり、恵慶宮洪氏の侍女をしていました。正祖のひとつ年下。恵慶宮洪氏は正祖李祘の母なので李祘は若い頃から母に仕えていた成氏を見ていたはずです。同じ年頃の成氏を見て気に入ったのでしょう。ドラマ「イサン」の設定に近い境遇にあったかもしれません。史実では恵慶宮洪氏は最初から味方ですけれど。

世孫時代の李祘が側室にしたいと願っても拒んだ逸話があります。

孝懿(ヒョイ)王后 金氏とは同い年。30歳で尚儀になったので当時としてはかなり高齢の側室入り。時々病気になっている記録があるのであまり体は丈夫ではなかったようです。

男子を出産、世子になりましたが幼くして病死。その後、妊娠中に病死しましたが、当時としては診断の難しい病気だったらしく、死因には毒殺などの憶測も流れました。

ドラマ「イサン」のヒロイン。ソン・ソンヨンのモデル。

宜嬪成氏の詳しい説明はこちら

綏嬪(スビン)朴氏

国王の生母なのに存在感が薄い

地位:綏嬪→嘉順宮

生年 1770年(英祖46年)
没年 1822年(純祖22年)
享年 53歳

宜嬪 成氏が死去した翌年の1787年(正祖11年)に王大妃の命令で側室になりました。最初から跡継ぎを生むのを期待されていました。

入宮していきなり嬪になりました。王子の李玜を出産。跡継ぎの誕生に正祖は大変喜んだといいます。李玜は後に23代国王純祖になりました。純祖即位後は「嘉順宮」と呼ばれました。当時の後宮には大王大妃(貞純王后)や王大妃(孝懿王后)がいたので後宮での存在感はいまひとつ。それでも一族が重臣に取り立てられて朴一族は出世しました。

朝鮮王朝の側室では唯一、生きている間に子供が王になる喜びを体験しました。英祖など生母が側室だった王は何人かいますが、全て生母の死後王になっているからです。

正祖の次の王の生母なのですが、ほとんどドラマに登場しない気の毒な人。

子:
庶二子 純祖 1790~1834年
庶二女 淑善翁主 1793~1836年 

・綏嬪朴氏の詳しい説明はこちら

 

正祖は歴代の朝鮮王でも側室が少ないです。
側室全員が「嬪」なのも珍しいです。

正室は祖父 英祖が決めました。
宜嬪 成氏以外の側室も大妃や周囲の人が決めた人。
唯一自分で選んだ女性が宜嬪 成氏です。

地位が不安定で暗殺を恐れていたというので、誰の味方かわからない女性を身近におきたくないというのもあったかもしれません。正祖は王には珍しく一途な性格なのかもしれませんね。

 

コメント

  1. 木原久美子 より:

    韓国時代劇ドラマ「イ·サン」を見ていますが、英祖が亡くなったあと新たな王として即位しましたが、在位期間はわずか4年という短い生涯を終えました。死因は定かではありませんが、死因を知りたいです。誰かご存じの方がいれば教えて下さい。

    • Fumiya より:

      こんにちは。正祖のことですよね?在位期間4年は何かの間違いではないでしょうか?
      正祖の在位期間は24年。享年49歳ですから当時の人としては短命とはいえないと思います。
      正祖は病死でした。顔や背中に腫れ物ができて血膿が出るほどだったといいます。病名はわかりませんが、腫れ物ができたのは敗血症だという説もあります。
      当時から毒殺説もありしたがが証拠はありません。もともと睡眠時間が短く不規則な生活をしていたようなので健康だったとはいえません。免疫力が低下しているところに傷口からウィルスや最近が感染して重症化したのでしょう。

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