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武則天・中華王朝唯一の女帝は皇帝になって何をした?

唐朝 5.1 隋唐の皇帝・皇子

武則天(則天武后)は中国史上唯一の女帝。

中国史上に残る印象的な人物なのは間違いありません。

武則天は長い間、中国三大悪女の一人ともいわれ。ずっと悪女のイメージがついてていました。

ところが第二次世界大戦後。中国では武則天は好意的に評価されました。その影響を受けてか日本の歴史業界でも武則天は高く評価されるようになりました。

でも武則天が中国王朝唯一の女帝なのは有名でも実際に何をした人なのか知らない人も多いと思います。

武則天は皇帝になってどんなことをしたのでしょうか?

この記事では皇帝としての武則天を紹介します。

 

皇帝になるまでの経緯はこちらで紹介しています。

・武太后(武則天)が権力を握って皇帝になるまでのいきさつ

 

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女帝・武則天の誕生

690年(載初元年)9月。武則天が即位しました。

国名は「周」。歴史上は古い時代の周と区別するため「武周」と呼びます。

首都は 神都(洛陽)、西都(長安)は副都でした。

ちなみに唐は正都が長安(西都)、副都が洛陽(東都)です。周は唐とは変えてあるのです。

武則天は息子の李旦を皇太子にしました。

武則天は名前を変えるのが好きです。皇帝になると自分の名前を(しょう)に変えました。「曌」は武則天が作らせた則天文字で「」と同じ意味です。

則天文字を作る

武則天は漢字だけでは満足できず独特の文字を作らせました。それが「則天文字」です。則天文字の「曌」は漢字の「照」。

日本人が知ってる則天文字は「圀」。水戸光圀の「圀」ですね。これは漢字の「国」(旧字体で國)を意味する則天文字です。

「漢字を使うのが文明人の証明」と思ってる漢人にとって。漢字でない文字を作って使うのはかなりの衝撃です。武則天が漢人でないなら独自の文字を作るのはわかるのですが。漢人です(鮮卑の血筋は入ってますが本人が意識したかどうかはわかりません)。

どうも武則天にはすでにあるものを否定したがる性質があるようです。

酷吏の処分

武則天が皇帝になってまず行ったのは評判の悪い酷吏の粛清でした。武則天は密告制度を作り唐の皇族や役人たちを見張らせ手当たり次第に捕らえて粛清していました。その手先になったのが酷吏でした。

彼らは謀反人を処分するほど出世できたので、無実の罪で処刑された人も多かったのです。武則天は酷吏を使って恐怖政治を行い反対派を粛清。皇帝になりました。

ところが自分が皇帝になった途端に酷吏を厳しく取り締まりました。

とくに評判の悪かった大物の酷吏が様々な罪状で捕らえられ処刑されました。

索元禮、周興が691年。侯思止が693年。来俊臣が696年に処刑されました。

最期は民衆に食べられた酷吏の代表・来俊臣

来俊臣は何度か謹慎処分をうけてもそのたびに戻ってきました。来俊臣は調子に乗って武則天の娘の太平公主や武氏一族を陥れようとしました。さすがに武則天は激怒して来俊臣を処刑、財産を没収しました。

武則天は来俊臣を斬首の後、醢刑にしました。醢刑とは「遺体を微塵切りになるまで切り刻む」こと。唐時代には国家転覆レベルの凶悪犯にしか行われない極刑です。

極悪人の来俊臣の処刑は長安では話題になり、見物に集まった人々は来俊臣の刻まれた肉に群がって食べた。と言われます。

処刑されたその場で民衆が食らいつくのは異常です。中国お得意の誇張表現。といいたいところですけれど。中国には人肉を食べる習慣はありますし。嘘とも言い切れないのが中国史の怖いところです。

一度は左遷した酷吏の敵・狄仁傑を優遇

酷吏を粛清する一方で691年には睿宗・武太后時代に密告制度を批判して左遷されていた狄 仁傑(てき じんけつ)を呼び戻し、要職を任せました。

皇帝になった武則天は評判の悪い酷吏を粛清、人々から評判のよかった狄仁傑を優遇することで自分の政権への評判を高めました。

密告制度を作ったのも酷吏を手足に使って反対派を粛清したのも武則天です。でも自分が皇帝になった途端に彼らを切り捨てたのでした。

吐蕃や突厥との戦いが続き消耗

2月。吐蕃(チベット)の党項部落1万人が武周に降伏。その後、吐蕃の首領 曷蘇(へす)、羌族首領 昝捶も降伏しました。

長壽元年(692年)9月。大将の王孝と阿史那忠節を派遣。吐蕃を討たせました。吐蕃後を武周の領土にして安西都護府を設置。さらに臣下の反対を押し切って安西に三万の兵を増やしました。

長壽元年(692年)9月。武則天は自分の称号を「金輪聖神皇帝」にしました。

その年。西突厥(テュルク)の阿史那俀子為可汗は吐蕃と同盟して武周に攻めてきました。室韋も反乱を起こしました。

694年(長壽3年)。将軍の李多祚が室韋の反乱を鎮圧。

2月。その後も武周軍は吐蕃と突厥の軍を撃破。吐蕃の都市を占領しました。

695年(證聖元年)正月1日。武則天は自分の称号を「慈氏越古金輪聖神皇帝」に変えました。

その年。武則天は王孝に西突厥を攻めさせました。
10月。西突厥の默啜可汗が降伏。武則天は默啜可汗を「歸國公、左衛大將軍」に任命しました。

武則天は神を祀る嵩山に登り、恩赦と百姓租税を一年免税すると発表しました。

696年(萬歲登封元年)。松漠都督の李盡忠と誠州刺史の孫万栄が反乱。営州都督の趙文翽を殺害しました。

その数は数万になり檀州を包囲しましたが。張九節が討伐しました。

武則天は曹仁師、張玄遇、李多祚たち将軍を派遣。しましたが突厥に待ち伏せされて敗北しました。

孫万栄を討つため、武則天は武懿宗、婁師德、沙吒忠義たち20万の兵で攻めさせました。6月。孫万栄を討ち取りました。

武則天の時代。各地で戦乱が続きました。大国の吐蕃を相手に領土を広げようとしたので苦戦が続き、その間に唐に服従していた西突厥が反乱を起こしたり。西部方面では戦乱が続きました。幸い有能な将軍たちの活躍でいくつかの戦いでは勝つことができました。でも大きな被害をうけて兵力不足に悩まされます。唐軍の弱体化は北東方面で渤海の独立を許すなど。各地で影響が出ました。

兵は失う、民は逃げて兵が集まらない。となると国は兵力が集まらずに困ります。そこで異民族を傭兵として採用。地方の守りを任せました。そうして力をつけたのが後に反乱を起こす安碌山や史思明たち軍閥です。

玄宗のせいで安史の乱が起きたみたいに言われます。確かに直接の原因は玄宗がつくりました。でも唐の弱体化は武則天の時代に始まっているのです。

後継者問題

武則天は息子の 李旦を皇嗣(後継者)にしていました。

ところが698年(聖曆元年)。武則天の甥の武承嗣と武三思は皇太子になろうとしました。そこで武則天の後継者は武氏から選ぶべきと進言しました。

武則天は迷って宰相の狄仁傑に相談しました。

狄仁傑は「叔母と甥、母と子。どちらが血縁が近いでしょうか?」と答え、地方に左遷されていた李顕(中宗)を呼び戻すように進言しました。

武則天は武承嗣と武三思を皇太子にはせず、地方に左遷されていた李顕を密かに洛陽に呼び戻しました。武則天の側近の吉頊、張易之、張昌宗は李顕を皇太子にするように進言しました。

皇嗣李旦も兄の李顕を後継者にするよう言いました。武則天は様々な人達から「唐の李氏」を後継者にするよう言われます。

さらに武則天が兵を募集したところ誰も集まらなかったのに対して。李顕が兵を募集すると応募が殺到しました。

そういったこともあり。武則天は李顕を皇太子にしました。

神龍政変で皇帝の座を退く

後継者問題も解決して。武則天には当面の不安材料はないように思われました。

中国王朝ではどんなに優れた皇帝も晩年になると堕落してよくない出来事が起こります。長生きした皇帝はたいていは「老害」になってしまいます。武則天も例外ではありませんでした。

武則天は歳をとるごとに自分の娯楽を優先するようになり。宮殿や寺院の建築・改築を繰り返しました。大規模な建築工事は国民の負担を増やしました。武則天は自分が皇帝になる正当性を作るため、自分の権威を高めるために仏教を利用しました。国民の生活の安泰を祈るための仏教ではありません。

晩年、武則天は美青年の張易之、張昌宗兄弟を側近として採用しました。武則天は高齢と病気のため、外に出る機会が減り。張易之、張昌宗を目や耳として頼っていました。

張易之、張昌宗は次第に政治に介入するようになります。

孫を処刑

701年。邵王 李重潤(太子 李顕(中宗)の息子)、永泰公主(太子 李顕(中宗)の娘)とその夫・魏王 武延基(武則天の甥の子)が張易之、張昌宗を排除しようと企んだ。と張易之、張昌宗が訴えました。それを聞いた武則天は激怒。

武則天は邵王 李重潤、魏王 武延基を処刑。永泰公主は妊娠中だったので処刑は免れましたが兄と夫の処刑にショックをうけて流産して死亡しました(自殺を強制された、殺されたという説もあります。

李重潤、永泰公主は武則天の孫です。それよりも寵愛している張兄弟を信用したのです。

この事件は大臣たちに衝撃を与えました。

 

反乱が起きる

705年(神龍元年)正月。このころ武則天は病で寝込むようになりました。起きることもできません。張易之、張昌宗兄弟がそばに仕えていました。

すると宰相の張柬之、崔玄暐、大臣の敬暉、桓彥範、袁恕己たちが「張易之、張昌宗が謀反を起こした」との理由で挙兵。500の兵で宮殿を取り囲み。張易之、張昌宗を殺害。

張柬之たちは武則天の寝所にやってきて「則天大聖皇帝」の称号を贈る代わりに太子の李顕に譲位するように迫りました。この称号から「則天」、姓の「武」をつけて「武則天」とよばれます。

病床の武則天も譲位を認め。皇帝の座を息子に譲り渡しました。

神龍元年1月24日(705年2月22日)。武則天は退位。息子の李顕(中宗)が即位しました。

国名も「周」から「唐」に変わりました。

神龍元年11月26日(705年12月16日)。病床の武則天が死去。享年82。

武則天は遺言で「皇帝」ではなく「皇后」として葬られることを希望したといいます。そのため「則天武后」とも呼ばれます。

 

テレビドラマ

淵蓋蘇文 2006年、SBS 演:
大祚榮 2006年、KBS 演:
二人の王女 2012年 演:李 湘
武則天・The Empress 2015年 演:范冰冰
大唐流流 2021年、中国 演:張譯兮 役名:小鹿
風起花抄 2021年、中国 演:施 詩

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