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李芳幹(イバンガン)王子の乱で李芳遠に敗れて流罪

朝鮮王族 3 李氏朝鮮の王子

李芳幹(イ・バンガン)は李氏朝鮮の建国者 李成桂の四男。

李成桂の息子の中では李芳遠とともに野心家だった人物。

定宗の次の王座を狙いました。

でも臣下から李芳遠ほどの支持は集められず。

第二次王子の乱で李芳遠に敗れ、流罪になりました。

反乱を起こした李芳幹には臣下から処刑の訴えが上がりましたが。定宗・太宗は死刑にはせず流罪にしました。

晩年には領地を与えられその領内で暮らしました。

史実の李芳幹(イ・バンガン)どんな人物だったのか紹介します。

 

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李芳幹(イ・バンガン)の史実

イバンガンのプロフィール

生没年

生年月日:1364年
没年月日:1421年

 

名前

名前:李芳幹(イ・バンガン、り・ほうかん)
称号:懐安大君(フェアンデグン)
本貫:全州李氏

 

家族

父:朝鮮太祖 李成桂
母:節妃韓氏
妻:元配閔氏

繼室琴氏

子供:李孟宗、李仲窘、誠惠翁主、他女子3人

李芳幹(イ・バンガン)は李氏朝鮮の建国者・李成桂の四男です。

日本では室町時代の人になります。

 

李芳幹(イ・バンガン)の生涯

出生とおいたち

1364年。高麗の咸鏡道咸興府貴州洞で生まれました。

父は当時、高麗の武官だった李成桂(イ・ソンゲ)

母は地方豪族の娘・韓氏。

李芳幹も父や兄と同じように高麗の武官になり、いくつかの役職を歴任しました。

1391年。生母の韓氏が死亡。

1392年(高麗供養王4年)7月。父の成桂が朝鮮を建国。

1392年(朝鮮太祖1年)7月。「懷安君」の称号が与えられました。

12月。朝鮮建国に功績があったということで「開国一等功臣」の称号を与えられました。

玄禄大夫の官職を受け、馬韓公に奉作されました。

 

第一次王子の乱 で世子を廃するのに協力

朝鮮太祖 李成桂は王に即位してしばらくは世子を決めていませんでした。

1392年(朝鮮太祖1年)8月。李成桂は八男の李芳碩を世子にしました。李芳碩は神徳王后 康氏の息子です。

康氏の実家は有力な貴族で、李成桂の王朝乗っ取りに貢献した一族でした。

それに対して韓氏は既に亡くなっており、韓氏の実家は地方の豪族であまり力がありません。

李成桂は康氏との関係を重視して康氏の息子を後継者にしました。

このころ。李成桂は鄭道傳とともに軍事力の集中を考えていました。王族が私兵を持つのを禁止して兵力を朝廷のもとに集めようとしていたのです。

こうした事情もあって。

李芳果、李芳毅、李芳幹、李芳遠、李芳衍たちは神徳王后 康氏や鄭道傳と険悪になっていきます。特に野心の強かった李芳遠は鄭道傳と対立しました。

1396年。神徳王后 康氏が死亡。

1398年。鄭道伝は遼東遠征軍を編成を発表。自分たちの力が奪われると考えた王子たちは李成桂が療養しているすきに反乱を起こしました。

中心になったのは李芳遠です。神徳王后の息子で、世子の李芳碩、七男・李芳蕃、鄭道伝とその仲間を殺害しました。事件のあと太祖 李成桂は譲位。

次男・李芳果(定宗)が王に即位しました。

李芳幹は鄭道伝の一味を排除した功績で「懐安公」になりました。

定宗の時代には豊海道西北面の軍を担当しました。

 

第2次王子の乱で弟イ・バンウォンに敗北

次男の定宗 李芳果が王になったものの。

定宗 李芳果には庶子はいますが、嫡子がいません。

でも李芳幹は次の王座を狙い始めました。

ところが野心をもっていたのは李芳幹だけではありません。五男・李芳遠も次の王座を狙っていました。

三男・李芳毅は穏やかな性格なので王になるつもりはありません。

王位後継者は李芳遠と李芳幹に絞られました。でも重臣たちの支持が多いのは李芳遠です。

1400年(定宗2年)。三軍府は 祭纛(軍神の儀式)の準備のため諸王に生贄にする獲物を狩ってくるように命令しました。

李芳幹は息子の李孟宗を李芳遠の屋敷に派遣して狩場について質問させました。

李芳遠は襲撃されるかもしれないと考えて、李芳幹の屋敷を偵察させました。すると李芳幹は屋敷の中庭に兵を集めて鎧を来させています。

李芳遠は様子がおかしいと思い義安公 李和、完山君 李天祐に連絡して兵を集め城門を閉じました。

さらに上将軍 呉応権に「靖安公(李芳幹)が私に危害を加えようとしているので兵を集めました。どうか驚かないでください」と報告。

その後、李芳幹軍と李芳遠軍は開城の馬井洞と典牧洞で激しく戦いました。

この戦いで李芳遠側が勝利。李芳幹は逃走。

李芳幹は高麗王朝の離宮がある積慶園に逃げ込みましたが、逮捕されました。

臣下からは「李芳幹は死刑にすべき」という意見が出ましたが。定宗は息子とともに流罪になりました。

 

反乱の後のイバンガン

罪人になって地方を転々

その後。太宗 李芳遠が即位。

太宗の時代も死刑にすべきという意見が上がりましたが。太宗は死刑は却下。李芳幹は各地を転々とさせられました。

流刑先で李芳幹が病気になって寝込むと太宗は医者を派遣しました。

1401年(太宗1年)。「懐安大君」の称号を与えられました。

太宗は懐安大君を漢陽(ソウル)に呼ぼうとしましたが臣下の反対でできませんでした。

その後。李芳幹は自ら李氏朝鮮の本拠地・全州に移り住むことを希望。李芳幹の希望は聞き届けられ、領地50戸を与えられました。

その後。李芳幹は自分の領地で一生を終えました。

1421年(世宗3)。死去。享年57歳。

 

死後

懐安大君の子孫たちは王族として認められず。庶民の扱いでした。

子孫たちは何度も王族への復権を要請しましたが拒否されます。

1605年(宣祖38年)。懐安大君の子孫はようやく王族として認められました。しかしあいかわらず軍役(徴兵)が課せられました(王族は労役の義務がない)。

その後も懐安大君の子孫は訴え続け。

1640年(仁祖18年)。仁祖の時代に軍役を免除されました。

 

テレビドラマのイバンガン

龍の涙  KBS、1996年 演: キム・ジュヨン
六龍が飛ぶ SBS、2015年 演: カン・シンヒョ
私の国 JTBC、2019年。演:イ・ヒョンギョン
太宗 イ・バンウォン KBS 2021年 演:チョ・スンチャン

 

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