純元王后(スンウォンワンフ)金氏は 19世紀の朝鮮の王妃。
第23代国王 純祖の正室です。
実家は安東金氏(新安東金氏)。
安東金氏は朝鮮末期に勢道政治を行い大きな勢力を持っていた一族です。安東金氏が勢道政治をできたのも純元王后がいたからです。
純元王后は純祖に自分の一族を採用するように働きかけ。その後もことあるごとに人事に介入。一族の者をひきたてて安東金氏の時代を作りました。
史実の純元王后 金氏どんな人物だったのか紹介します。
純元王后 金氏の史実
どんな人?
名:不明
称号:純元王后(スンウォンワンフ、しんていおうこう)
本貫:新安東金氏(一般には安東金氏といわれます)
生年月日:1789年6月8日
没年月日:1857年9月21日
家族
母:青松 沈氏(青陽府夫人)
兄弟:金逌根、金元根、金左根
子供:孝明世子、明温公主 他
養子:哲宗 李昪(第25代国王)
英祖~哲宗の相関図
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の時代です。
日本では江戸時代の人になります。
正祖の時代に世子嬪に内定
1789年(正祖13年) 金氏は生まれました。
父は金祖淳(キム・ジョスン)。当時の朝廷では老論の時派と僻派で党派争いが激しかった時期。金祖淳は時派に近い家柄でしたが中立を保ち正祖から高く評価されていました。
揀択(カンテク、王妃・世子嬪選びの儀式)で世子嬪に内定。ところが直後の1800年(正祖24年)。正祖が死去。金氏の婚姻は中止になりました。
純祖 李玜(イ・カン)が即位。でも純祖は12歳。貞純王后(大妃)が垂簾聴政を行いました。貞純大妃の実家、慶州金氏は僻派の家柄。貞純大妃は慶州金氏の人々を採用。
時派の人々は弾圧を受けました。でも金祖淳は中立を保っていたので生き延びました。
純祖の時代に王妃(純元王后)になる
揀択で内定した場合、例え結婚できなくても一生独身でいなくてはいけません。金祖淳は娘が純祖と結婚できるように強く訴えました。僻派は反対しましたが、気の毒に思った貞純大王大妃のおかげもあって金氏は王妃(純元王后)になりました。このとき12歳。
父の金祖淳は訓練大将、禁衛大将などを務め、純祖時代の軍事部門で力を持ちました。
安東金氏による勢道政治
安東金氏一族を要職に就けさせる
1805年(純祖5年)。貞純大王大妃が死去。慶州金氏、僻派が後ろ盾を失い失脚。
金祖淳の反撃が始まります。金祖淳は安東金氏の一族を続々と役職につけました。純元王后も一族の者が役職につけるように純祖に働きかけました。
こうして金汶根(後の哲宗の妃・哲仁王后の父)、金左根、金祖根、金弘根たち安東金氏の一族が役職につきました。
安東金氏による勢道政治の始まりです。
特定の一族が権力を独占すること。正道(世の中を正しく統治する道理)を口実に政治を牛耳ったので勢道政治と呼ばれます。
1809年(純祖9年)。純元王后が李旲(孝明世子)を出産。
安東金氏の勢力はますます大きくなります。さすがに純祖も安東金氏の力の大きさには困りました。でも純祖にはどうすることもできません。
1812年(純祖12年)。李旲が世子になりました。
金氏に危機感を持った純祖が豊壌趙氏を味方に引き込む
1819年(純祖19年)。純祖は安東金氏の力を抑えるため有力な一族の豊壌趙氏から世子嬪を迎えることにしました。趙萬永の娘が世子嬪になりました。
1827年(純祖27年)。世子嬪趙氏が息子の李奐(後の憲宗)を出産。
孝明世子が代理聴政。安東金氏(弱) < 豊壌趙氏(強)
純祖は孝明世子に代理聴政を任せました。孝明世子は豊壌趙氏の人たちを採用。政治の主導権を握って政治を行っていきます。
純元王后の一族、安東金氏は力を失っていきます。
ところが1830年(純祖30年)。孝明世子が急死。享年22歳。李奐(イ・ファン)が世孫になりました。
孝明世子の死。安東金氏(強) > 豊壌趙氏(弱)
皮肉なことに息子の死で実家の安東金氏の力が蘇りました。
1832年(純祖32年)。純元王后の父・金祖淳が死亡。純元王后の弟・金左根(キム・ジャグン)が後を継ぎました。
1834年(純祖34四年)。純祖が死去。享年45歲。
憲宗の時代も続く安東金氏と豊壌趙氏の戦い
大王大妃金氏の垂簾聴政。安東金氏(強) > 豊壌趙氏(弱)
1834年。世孫李奐が即位。憲宗の誕生です。
純元王后金氏は「大王大妃」になりました。神貞王后趙氏 は王大妃になりました。
憲宗は8歳のため大王大妃の純元王后金氏が垂簾聴政を行いました。
純元王后金氏の権威を後ろ盾に金左根が中心になって政治を動かしました。
憲宗3年(1837年)。憲宗の妃に一族の安東金氏から金祖根の娘を迎えました。孝顕王后金氏の誕生です。
憲宗の時代になっても勢道政治は変わりません。人々の生活は苦しく宗教にすがる者が増えました。このころカトリックや新興宗教の信者が増えます。そこでキリスト教の弾圧が行われました。
憲宗の親政。安東金氏(弱) < 豊壌趙氏(強)
1840年。憲宗が14歳になり純元王后金氏が垂簾聴政を退き、憲宗が自ら政治を行い始めます。でも憲宗はまだ若く力を持ったのは憲宗の生母の大妃の神貞王后趙氏でした。
大妃の神貞王后趙氏は親族を集め、勢道政治をはじめます。
憲宗の妃(孝顕王后)も安東金氏なので豊壌趙氏が圧倒的に強いというわけではなく、まだどちらが勝つかわかりません。
役人たちは安東金氏と豊壌趙氏の両方の顔色をうかがい賄賂を送りました。賄賂合戦が当たり前になります。賄賂の財源は民からの搾取なので人々の生活はさらに苦しくなります。
1843年。孝顕王后金氏が死去。後任の王妃には南陽洪氏から孝定成王后洪氏が選ばれました。
このころ朝鮮沖に異様船(外国船)が出没、開国を要求する船も増えていきました。でも朝鮮の朝廷は無視して朝廷の内部で権力争いを続けていました。
1849年。憲宗が死去。享年23歳。
純元王后が後継者(哲宗)を選ぶ
憲宗には後継者がいません。大臣たちは次の王を決めるために純元王后のもとに相談に来ました。そこで純元王后は 李元範(イ・ウォンボム)を指名。
正祖の時代、思悼世子の庶子・恩彦君は謀反の罪を着せられ死罪。その子らは江華島に流罪になりました。江華島で暮らしていた恩彦君の孫が李元範です。王族とはいっても李元範は罪人の子孫とされ農民同然の生活をしていました。
でも正祖の子孫は絶えてしまいました。
英祖まで遡れば他にも候補はいますが。純元王后と安東金氏は豊壌趙氏に主導権を奪われたくないので憲宗が死ぬ前から次の候補を考えていました。
そして憲宗の死後、強引に李元範に決めました。李元範には後ろ盾になる外戚はなく、操りやすいと考えたからです。豊壌趙氏からもとくに反対はありませんでした。
江華島から李元範が王宮に迎えられ、純元王后の養子になり李昪(イ・ピョン)と改名。国王になりました。哲宗の誕生です。
哲宗の時代:純元王后の垂簾聴政
純元王后の垂簾聴政 安東金氏(強) > 豊壌趙氏(弱)
哲宗は19歳でしたが。農民のような生活をしていたのでろくに漢字の読み書きが出来ません。政治のこともわかりません。
そこで養母で大王大妃の 純元王后が垂簾聴政をすることになり。弟の金左根(キム・ジャグン)が中心になって政治を行いました。
安東金氏から金汶根(キム・ムングン)の娘を王妃(哲仁王后)にさせました。
哲宗は何を決めるにも金左根に相談。他の重臣から意見を求められても「金左根は承知しておるのか?」と聞くあり様でした。
島で田畑を耕していた青年がいきなり都に連れてこられて王になったのですから仕方ありません。純元王后と金左根の狙いもそこでした。
安東金氏の全盛時代がやってきました。
こうしてますます勢道政治はひどくなり、人々の生活は苦しくなります。
1857年(哲宗8年)。純元王后は昌徳宮養心閤で死去。享年68歳。
仁陵(ソウル特別市瑞草区)に純祖と合葬されました。
純元王后の死後、安東金氏が弱体化
純元王后が亡くなり後ろだてを失った安東金氏の力は弱くなります。
哲仁王后も安東金氏ですが子はなく政治に関心がありません。
1864年に哲宗が死去して高宗の時代になると興宣大院君や驪興閔氏に政治の主導権を奪われました。
純元王后は安東金氏の勢道政治を支えた人物だったのです。
テレビドラマ
雲が描いた月明り
KBS 2016年、演:ハン・スヨン
哲仁王后
tvN 2020年 演:ぺ・ジョンオク
史実と違い哲宗が有能で安東金氏の勢道政治を終わらせました。ラストで大王大妃金氏と大妃趙氏は西宮に幽閉されます。
史実では大妃たちは幽閉されていません。歴史上、西宮に幽閉されたのは光海君時代の仁穆大妃だけです。
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